ジャイアント馬場とジャンボ鶴田の全盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:40 UTC 版)
「全日本プロレス」の記事における「ジャイアント馬場とジャンボ鶴田の全盛期」の解説
初期 ジャイアント馬場が培ったアメリカ(主にNWA)での人脈を生かし、多くのスター外国人選手を招聘するなど力道山の時代の「日本人選手対外国人選手」の系譜を受け継いだ。新日本プロレスのストロングスタイルに対し、アメリカン・プロレスの源流に重きを置いた。この時期に鶴田を輩出してミル・マスカラスやテリー・ファンクなどアイドル的な人気を博したベビーフェイスの外国人選手も登場。1977年、世界オープンタッグ選手権に端を発するザ・ファンクスとアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク組の流血の抗争劇も人気を呼んだ。 中期 1981年、新日本との引き抜き合戦が勃発した。5月にブッチャーが引き抜かれるが、全日本も7月にタイガー・ジェット・シン、12月にスタン・ハンセンを引き抜く。また、馬場や鶴田に次ぐ選手として天龍源一郎、大仁田厚、三沢光晴らも台頭していった。馬場が年齢を理由にタイトル戦線から退いた後は、「明るく、楽しく、そして激しく」を掲げ、日本人選手の対戦が主軸となった。その他にも、中継権を持っていた日本テレビと関連が特に深い時期であり、一時馬場が会長職に退き日本テレビの役員だった松根光雄が、出向の形で全日本の社長ポストに就いていた(馬場は、松根の退社後に社長に復帰)ほか、大八木賢一(後に全日本専務、ノア専務)など多くの日本テレビ関係者が出向で全日本に在籍した。天龍を中心に「見る者にも、痛みの伝わるプロレス」が繰り広げられた。 1984年、新日本を離脱した長州力らジャパンプロレスの選手が参戦したが、その後ジャパンプロレスが分裂し長州らが新日本に戻ったのをきっかけに、天龍は阿修羅・原と「天龍革命」を起こし鶴田、ハンセン、ブルーザー・ブロディらとタイトル争いを演じた。 1987年、ハル薗田が新婚旅行を兼ねて南アフリカへ試合のために向かう途上、航空機の墜落事故に遭遇し、不慮の死を遂げた。薗田は、31歳というこれから脂の乗ってゆく年代の選手であるだけに期待されており、マシオ駒亡き後の若手に対するコーチ役を務めていたことから組織としても痛手となった。 後期 1988年、長く待望されていた3つのヘビー級王座の統一が図られるが、決定戦のたびに引き分けや不透明決着に終わった。 最初の統一戦から約1年が経過した1989年4月16日、後楽園ホール大会におけるメインイベントの鶴田対ハンセン戦も反則裁定に終わり、ついに激怒したファンが暴動寸前にまで陥る。三冠統一は4月18日、鶴田により成されたがこれがきっかけとなって全日本の試合からあからさまなリングアウト・反則裁定が排除され、技による完全決着がつけられるようになる。これが後の鶴田対超世代軍、四天王の激戦を呼ぶ伏線となった。
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