ジャイアント馬場の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 06:47 UTC 版)
「インターナショナル・ヘビー級王座」の記事における「ジャイアント馬場の時代」の解説
ジャイアント馬場が凱旋帰国しスケールの大きなレスリングで爆発的な人気を得ると「馬場を力道山の後継者として、インター王者を継がせるべきだ」という声が起こり、日本プロレスはNWAの了承を得てインターナショナル王座の封印を解除、「NWA認可、日本プロレスリング・コミッション認定」のタイトルとして復活させる。ただしチャンピオンベルトは力道山が使用したものを使わず、それとは全く別にベルトを新調した。 1965年11月24日、王座決定戦でディック・ザ・ブルーザーを破った馬場が第3代王者に就く。馬場は途中ボボ・ブラジル、ジン・キニスキーに王座を明け渡したものの、1972年9月に日本プロレス脱退・全日本プロレス創立に伴い王座を返上するまで、タイトルを保持した。この間テーズ、キニスキー、デストロイヤー、フリッツ・フォン・エリック、キラー・カール・コックス、ゴリラ・モンスーン、ブルーノ・サンマルチノ、ターザン・タイラー、クラッシャー・リソワスキー、ウイルバー・スナイダー、フレッド・ブラッシー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク、ドリー・ファンク・ジュニア、ザ・ストンパー、スパイロス・アリオン、イワン・コロフ、クリス・マルコフ、テリー・ファンク、ブルドッグ・ブラワー、ジョニー・バレンタインらの強豪を退け、インターナショナル王座の価値はますます高いものとなった。キニスキーやドリー・ファンク・ジュニアがNWA世界ヘビー級王者として来日した際にも、日本プロレスとNWA双方の「日本にはインター王者がいるから」という意向で馬場が挑戦するNWA戦ではなくNWA王者が馬場に挑戦するインター戦が行われたことがあった(もっとも、馬場本人はNWA戦を望んでいたという)。
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