ジャイアント馬場との関係
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新人の頃、馬場にシャツの裾が出ていることを注意され、一度裾をズボンに入れるがすぐに「馬場さん、やっぱりこっちの方が良いです」と言ってまた裾を外へ出した。全日本において絶対的存在であった馬場へ口答えした秋山を見て他の選手は慌てふためいたものの、「コイツは大物になる」と感じた馬場は「最近の若者はよく判らん」と言いながら笑って許した(馬場の教えから、現在もノアの選手の多くがシャツの裾をズボンに入れている)。
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ジャイアント馬場との関係
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「ブルーノ・サンマルチノ」の記事における「ジャイアント馬場との関係」の解説
ジャイアント馬場とはレスラーとしてのキャリアは1年しか違わず、若手時代からの友人であり出世を誓い合った最大のライバルの一人であった。その後両者ともに出世し、時期は違えど世界王座奪取を成し遂げて、お互いに世界王者の立場で対戦したことが何度かある。しかし、ダブルタイトルマッチは1975年5月(PWFとWWWF)の1回きりで、それ以外はお互いに相手の保持するタイトルに挑戦していた(もっぱらサンマルチノが馬場の持つ王座に挑戦する形であった)。 馬場は自身の著書で、外国人選手のなかで国内選手と同様の友情関係が保てるのはサンマルチノだけと述べている。その証拠に馬場が全日本プロレスを旗揚げするときに、アメリカで真っ先に相談に行ったのはどの地区のプロモーターでもなくサンマルチノであった。また、WWWFが全日本プロレスと友好関係を打ち切り、1974年に新日本プロレスと提携した際も、サンマルチノは馬場との友情関係を理由に新日本への参戦を拒否し全日本プロレスに出場し続けた。これが最終的にWWWFとPWFのダブルタイトルマッチの実現に至った経緯ともなった。なお新日本とWWWFとの提携の際、サンマルチノとアントニオ猪木の試合が計画されていたが、参戦拒否を受けて実現しなかった(猪木は1978年11月のヨーロッパ遠征でローラン・ボックと対戦したが、この試合は日本代表の猪木とヨーロッパ代表のボックとのダブルタイトル戦であるとして、勝者はアメリカ代表のサンマルチノと世界統一戦を行う予定だったという)。 キャデラックを愛車としていた。来日した際に、馬場が巨体を窮屈に押し込めて車に乗り込む姿を目撃したサンマルチノは、自分が当時乗っていた67年式キャデラックを馬場に船便でプレゼントした。その心意気に感動した馬場は、生涯、車を買い換える際は常に同じ色・型のキャデラックを選び続けた。 1999年5月2日に行われた全日本プロレス東京ドーム大会において組まれた「ジャイアント馬場引退試合」に、最後の対戦相手としてジン・キニスキーと共に指名されている。そしてリング上で「ババ、君に挨拶するために来た。君は体だけじゃなく、心もジャイアントだった。君はすべての人に愛され、大切にされた素晴らしい人物だった。今日この場にいられることを嬉しく思う」とスピーチした。
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