シャハトの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 05:59 UTC 版)
「ナチス・ドイツの経済」の記事における「シャハトの時代」の解説
「ナチス・ドイツの経済#労働政策」も参照 5月31日にヒトラーは指導的経済人と会議を行い、この席で道路網整備と住宅増加が雇用増大の出発点であるとした。また大企業からの要請に基づき、租税の5年間据え置きと、社会政策支出削減によって予算を均整化する方針を固めた。これ以降6月1日には第一次失業減少法(ラインハルト計画)、9月21日には第二次失業減少法(第二次ラインハルト計画)、9月23日からはアウトバーンの建設といった半奉仕活動的な雇用による失業抑制策がとられた。また結婚奨励金や家事手伝いの奨励により、女性を労働から家庭に送り込むことを奨励したが、生活消費を増加させる効果もあった。これらの政策によって登録労働者は1933年のうちに200万人減少したが、奉仕活動的な雇用や統計操作を含むものであり、再軍備や軍需拡大による雇用創出が行われるまでの時間稼ぎ的な性質のものであった。一方で企業に対して租税減免措置がとられ、自動車産業に対する保護育成策もとられた。また低調であった民間投資を集中するため、重点的事業でない繊維・紙パルプ・ラジオ・自動車部品製造などの分野には投資禁止措置がとられた。 1934年3月をピークとして雇用創出での雇用は減少しはじめ、1935年には20万人程度まで低下した。この間に生産財製造業や建築業、自動車産業での雇用が進んだ。また1935年3月16日には正式に再軍備が開始され(ドイツ再軍備宣言)、徴兵制が再開されたことで国防軍に86万人が吸収されたこともあって失業問題は解決され、ほぼ完全雇用が達成された。 また大規模な公共投資は直接的な雇用だけではなく、関連企業の投資を促して景気回復を促した。1936年には国民総生産が1932年比で50%増加し、1936年には国民所得が42%、工商業各指数生産指数が88%、財・サービスへの公共支出が130%、民間消費指数が16%増加した。しかし各種政策への出資にともない、1933年から1937年の期間で国家債務が110億マルク増大していた。産業面では公共事業に直結する生産財製造業や建築業の活況が景気を支えた。特に自動車産業の成長が目立ち、1934年の生産額は過去最高の1928年比で148%、1935年には200%を超えた。さらに雇用数は1934年には過去最高の1928年の水準に達し、1935年にはこの水準をも超過した。さらに石炭・冶金・機械工業企業では総利益が2倍になっている。この一方でヴァイマル時代からの外貨不足状況は変わっておらず、原材料である生糸や綿の輸入が進まなかったため、消費財分野の主力である繊維工業は停滞し、消費財分野全体の雇用者もほとんど増加しなかった。また、統制による賃金抑制は国内消費水準回復の遅滞を招いた。また、同時期には食糧相リヒャルト・ヴァルター・ダレが推進した血と土のイデオロギーに基づく農本主義的農業政策が行われたが、自立小農民を保護する政策は経営合理化を妨げ、増産につながらなかった。また農地の長子単独相続を定めたために次男以下の離農が進み、農業振興とは逆行する事態が発生した。このことと天候不順が重なり、食料輸入が1936年代の課題となる。
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