シベールの終刊
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「シベール (同人誌)」の記事における「シベールの終刊」の解説
ほどなく巷では吾妻の新作を求めて『少女アリス』(アリス出版)が売られている自動販売機を捜し歩くマニアが続出し、同じく『シベール』も列整理が必要となる最大手の壁サークルに急成長する。アニメ雑誌『月刊OUT』(みのり書房)1980年12月号に掲載された「病気の人のためのマンガ考現学・第1回/ロリータ・コンプレックス」という記事ではコミックマーケット準備会代表の米沢嘉博が「コミケットなぞで見かけたら買っておくこと。汚染度90%である」と同誌を取り上げ、その名をアニメファンに広く知らしめるきっかけとなった。 しかしブームの折りから次第に吾妻をはじめとする参加者の本職が忙しくなり、それに加えて同誌に追随する複数のロリコンファンジンも現れ始めたことから「やるべきことはやった」という確信のもと、コミックマーケット17(1981年4月5日)で頒布された7号目を最後に本誌は終刊宣言する。なお終刊号の行列は発売前から100人前後にまで達し、この中にはデビュー前の「森山塔」こと山本直樹も並んでいたという逸話がある。 コミケットのみならず一般にもロリコンブームを巻き起こした同誌の存在は終刊後すぐに伝説化した。まず志水一夫(原丸太)が「終刊半年足らずにして伝説的存在に」と『ふゅーじょんぷろだくと』1981年10月号のロリコン特集「ロリータあるいは如何にして私は正常な恋愛を放棄し美少女を愛するに至ったか」やアニメージュ増刊『アップル・パイ 美少女まんが大全集』(1982年3月)の寄稿記事などで同誌を紹介した。続いて米沢嘉博(阿島俊)が『レモンピープル』創刊号(1982年2月号)から連載を開始した「同人誌エトセトラ」第1回で「今や神話となった幻のシベール」と同誌を紹介する。吾妻は「米沢さんが評論をいっぱい書いてくれたので私は漫画史に名前が残ります」と感謝の弁を述べていた。 『シベール』神話に関して同人の計奈恵は、新宿Naked Loftのトークイベント「プレイバック’80年代〜あの頃の美少女漫画の話をしよう」(2016年10月30日)出席時、同席者から『ミャアちゃん官能写真集』(吾妻ひでおが1981年夏のC18で頒布した伝説的同人誌)の話が出た時、当時からすでに「伝説のシベール」と扱われるような状況だったと述べており、「美少女漫画の黎明期を語る」という趣旨のイベントだったにも関わらず、最古参の計奈は同席者との会話に全く付いて行けなかったと苦笑する。さらに計奈は吾妻ひでおファン葬(2019年11月30日)参加時も「知ってる人がいなかった」と語っており、同人の孤ノ間和歩ともども「確かに吾妻先生と美少女同人誌の歴史に居たけど、私ら〔シベールメンバー〕ってミッシングリンクだよね」と述懐している。また大塚英志も「結局、あの後『シベール』の人たちよりもう一つ下の世代が次々出てきて、そっちの連中の方がもっとエロとしては過激なものを描いてたんで、わりと『シベール』の人たちはそういう世代の狭間にはまっちゃったみたいなところがあった」「吾妻ひでおの許に集まった創世記のロリコン/美少女まんがの描き手たちは、その後にやってきた世代に呑み込まれる形でフェードアウトしていかざるを得なかったが、たいてい新しいジャンルやスタイルのおいしいところは二世代ぐらい後にやってきた一群が全てさらっていくものだ」と語っており、黎明期のロリコン漫画家たちがミッシングリンク化している状況を認めている。
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