シベール・メンバーのその後
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「シベール (同人誌)」の記事における「シベール・メンバーのその後」の解説
吾妻ひでおが定型化したロリコン漫画の形式は、その周辺にいた同人作家たちに継承され拡散していった。吾妻は1979年4月から1981年8月までの約2年間の活動で同人誌や自販機本といったアンダーグラウンドなインディーズメディアを通して以降の漫画状況をメジャー・マイナーを問わず決定的に変え、それを1980年代以後のおたく文化に繋いだ。 蛭児神建は1980年から自身が主宰する「変質社」に移り、過激派ロリコン文芸誌『幼女嗜好』を発行。ロリコン界の教祖的存在としてコミケに君臨する。それ以外のメンバーは「グループ601」「ぐるーぷティンカーベル」「STUDIO BAKI」に分かれ、本誌終刊後も活動を継続した。 「グループ601」は『シベール』元編集長の沖由佳雄が主宰する同人サークルであり、1981年12月に創刊された後継同人誌『エピカル』には『シベール』出身メンバー(計奈恵、孤ノ間和歩、三鷹公一、豊島ゆーさく、仁科倉一)も多数参加していた。しかし、その後は離合集散を繰り返し、やがて見解の相違などから一部の初期メンバーが分派・独立した結果、シベール時代の痕跡は跡形も無くなった。 一方「ぐるーぷティンカーベル」は、ファンタジー路線を基調にした創作系同人誌『アスケロン』や批評誌『アーケロン』を定期刊行し、沖由佳雄、豊島ゆーさく、計奈恵、森野うさぎ、川猫めぐみ、よしき志信、毛羽毛現、さえぐさじゅんらが原稿を寄稿した。 森野うさぎ主宰の「STUDIO BAKI」は、後に壁サークルとなるクリエイティブ集団「スタジオ・アオーク」に発展し、自主制作アニメ『AWAKE』の製作を主軸にその資金稼ぎとして同人誌以外に『漫画ブリッコ』誌上でメディアミックスも展開し、第2次ロリコン商業誌ブームの嚆矢となる。
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