サザエさん連載開始
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1946年(昭和21年)4月22日、西日本新聞の僚紙としてフクニチ新聞社から創刊された「夕刊フクニチ」で連載漫画の依頼が舞い込み引き受けた。自宅の近所である百道海岸付近を妹と散歩をして海辺の風景を眺めているときに登場人物に海にちなんだ名前をつけて『サザエさん』の家族構成や名前を思いついた。磯野家の日常を描いた『サザエさん』は、彼女のファッションも話題となり、人気を博した。当初、本人は「アルバイト感覚で引き受けた」と語っている。 有名出版社から町子と姉・毬子への仕事のオファーがあったため、『サザエさん』は8月22日にサザエの結婚で一旦打ち切りとし、同年の暮れに一家そろって上京する。当時東京都への転入は戦後事情のため制限されていたが、新聞記者という名目で許された。上京直前、母親の貞子が家を売った資金で「サザエさんを出版なさい」と毬子と町子に命じる。 1946年12月に家族4人で出版社「姉妹社」を設立。翌年の1947年1月1日、『サザエさん』第1巻を出版する(定価12円)。1947年1月3日、夕刊フクニチへの連載を再開している。連載を再開する際、打ち切り直前に登場させたマスオの顔を作者本人が忘れていて、西日本新聞社東京支局まで行き確認している。さらに地方紙にも掲載されるようになる。 第1巻は初版2万部を日本出版配給(日配)に持ち込むと全て引き取ってくれたため、毬子は重版をかけさらに2万部を刷った。しかしB5判の横綴じという第1巻の形状が書店に並べにくいと不評で、長谷川家は返品に占拠される事態となった。しかし、母の貞子が「次はB6判で出せば良い」と励まし、知り合いの出版関係者から借り入れた資金で『サザエさん』第2巻を出版。これが1か月に17万部も売れるベストセラーになる。B5判の第1巻も書店からの注文がくるようになり、返品は全て引き取られた。以降、『サザエさん』の第1巻はB6判に改訂されて再出版され、姉妹社で全68巻が刊行された。 1948年11月21日より『サザエさん』の連載先を新夕刊に移すと、磯野家も東京を舞台として描くようになる。 1949年、朝日新聞社が創刊した夕刊朝日新聞に『サザエさん』の連載の場を移し、週刊朝日に連載していた『似たもの一家』を打ち切る。1951年から『ブロンディ』の後を承けて朝日新聞の朝刊を飾り、新聞4コマ漫画の第一人者となる。この頃になるとファンレターも来るようになったという。同漫画は後に何度か中断期間を挟みつつ1974年(昭和49年)まで連載された。 胃痛や風邪による休載はしばしばあったが、1960年には漫画家廃業を宣言し、一年近く断筆した。漫画考案に苦悶する町子を見かねていた家族は廃業に賛成する。朝日新聞社に毬子を通じて連載終了を申し出るが、広岡知男編集局長は休載扱いとした。約半年後に長谷川の心境が変わった後に朝日新聞社から打診があり、連載を再開している。
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