グレンギャリ城での生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 08:35 UTC 版)
ハリウッドのスターとして絶頂期にいた雪洲夫妻は、結婚以来バンガローで暮らしていたが、1917年にはハリウッドのアーガイル通りとフランクリン通り(英語版)の交差点の一角に、「グレンギャリ城(またはアーガイル城)」と呼ばれる大きな邸宅を購入した。もともと雪洲は自分で豪邸を建設するつもりだったが、日本人の土地所有を禁じる外国人土地法に阻まれ、やむを得ず売りに出されていたこの邸宅を購入したという。グレンギャリ城はスコットランド風の城のような4階建ての石造りの建物で、32室もの部屋があった。正面玄関は道路から前庭の10段ほどの階段を登ったところにあり、左右には大理石の雌雄のライオン像があった。内装は古い時代の宮殿風で、東洋の壺やペルシア絨毯、イタリアのアンティーク家具など、世界中の調度品や古美術品が置かれた。グレンギャリ城の豪壮さは、当時のハリウッドのスターの豪邸がかすんでしまうほどで、観光バスがわざわざ邸宅の前で停車するほどの名所になったという。 雪洲夫妻は7人の召使いを雇い、ピアース・アローやキャデラックなど4台の車を所有した。運転手は後に写真家して知られる宮武東洋が務めた。また、雪洲の内弟子だった阿部豊や牛山清人、ジョージ・桑(英語版)らがグレンギャリ城に住み込んだ。雪洲はロサンゼルス市長などの名士をグレンギャリ城に招き、数百人が入れる大広間で、少なくとも週に1度は盛大なパーティーを開いた。アメリカ巡業に来ていたオペラ歌手の三浦環を紹介するために、600人以上の招待客を集めてカクテル・パーティーを開いたこともあり、あまりの賑やかさに近くのコンサート会場と勘違いした団体客がやって来たという逸話もある。雪洲夫妻の豪奢な暮らしぶりは、当時のハリウッドのスターの中でも群を抜いており、アメリカの白人の間でも評判になるほどだった。夫妻の私生活はたびたび映画雑誌などで報じられ、まさに一挙手一投足が注目を浴びるようなスター夫婦となった。 雪洲がグレンギャリ城を購入し、豪華なパーティーを開いたのは、当時のアメリカ社会における日本人の立場を反映したものだった。排日ムードが高まっていたアメリカでは、日本人が野蛮で生活程度が低く、社交性も欠けている民族だと認識されていた。こうした背景があり、雪洲は「まわりにいるアメリカ人たちに、日本人もアメリカ人と同じ水準の贅沢な生活をするんだぞ、と見せてやりたかった」ため、豪華な生活をしたと主張している。実際にグレンギャリ城はアメリカに住む日本人の誇りになり、それまでいわれのない差別を受けて肩身の狭い思いをしていた日系人たちは、雪洲の豪華な生活ぶりをねたむより、むしろグレンギャリ城を見て大いに勇気づけられ、雪洲の心意気をわがものとして、道の真ん中を歩くことができるようになったと伝えられている。 グレンギャリ城には、チャールズ・チャップリンやルドルフ・ヴァレンティノといったスターもよく訪れていた。チャップリンは朝、撮影所へ向かう途中にグレンギャリ城に気軽に立ち寄り、コーヒーを飲みにきたという。チャップリンと雪洲は近所の友人であり、生年が近く、天ぷらが大好物だという共通点があった。1949年に『東京ジョー』の撮影で渡米した時には、チャップリンと16年ぶりの対面を果たし、旧交を温めている。一方、ヴァレンティノはグレンギャリ城に遊びに来て、雪洲にダンス、鶴子にイタリア料理を教えたという。ほかにも多くの映画関係者や各種分野の著名人たちが出入りし、日本領事館もグレンギャリ城の応接間を迎賓館がわりに使っていた。 雪洲夫妻はハリウッドを離れる1922年頃までグレンギャリ城で暮らし、ヨーロッパに活動拠点を移したあとの1923年11月に邸宅を売却した。その3年後にグレンギャリ城はユダヤ人に買い取られ、ユダヤ教の寺院の教育本部になったが、のちにハリウッド・フリーウェイ(英語版)が敷地の上を通ることになったため、その建設に伴い取り壊された。その後、ハリウッドの丘の上にある日本料理店「山城(英語版)」が雪洲の邸宅と混同されることがあったが、これはドイツ人絹商人のバーンハイマーが別荘として建設した東洋風建築の建物であり、西洋風建築のグレンギャリ城とは全く関係はない。
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