クレディタンシュタルト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/25 04:50 UTC 版)
「オーストリア銀行」の記事における「クレディタンシュタルト」の解説
1855年ウィーン・ロスチャイルド家のアンゼルム・フォン・ロートシルトが、クレディト・アンシュタルト銀行(Creditanstalt)を創業した。オーストリアの主力銀行ではスタートが最も早い。後続の立ち上がる間に鉄道敷設を担ったが、一方で工業投資には消極的であった(竹の子時代、普墺戦争から普仏戦争の間くらい)。大不況の入り口(1873年恐慌)でクレディタンシュタルトが取引したのは、国債とごく限られた工業長期社債だけであった。しかし大不況がすぎてからはドイツ帝国のように工業と癒着してゆき、第一次世界大戦のころには広大な二重帝国の、特にドナウ川流域の基幹産業に対する支配を揺るぎないものとした。この関係が戦中に緩んでインフレを招いてしまい、二重帝国の崩壊も重なって、クレディタンシュタルトは弱体化した。その結果、同行の外国人株式保有割合は1913年に4%ほどであったのが、1923年20%にもなった。 戦間期の同行はルイ・ナタニエル・フォン・ロートシルト男爵(ドイツ語版)のザロモン・マイアー・フォン・ロートシルト銀行が支配した。フィウメ放棄にともなう「イタリア政策」で資金を使い込み、1925年初頭に財政が底打ちとなった。それでもクレディタンシュタルトは4つも他行を新たに支配した。インスブルックのアングロ・オーストリアン・バンク(Anglo-Österreichische Bank)他3行。アングロ・オーストリアン・バンクは1926年に買収、同行へはイングランド銀行が参加した。クレディタンシュタルトは世界恐慌の直撃を受けて1931年に破綻したが、その寸前で外国人の株式保有割合は1/3に達していた。オーストリア政府が国際決済銀行に信用供与を求めると、フランスはこれに対して自国の信用供与の条件として独墺関税同盟の破棄を要求し、両政府はその破棄を宣言した。クレディタンシュタルトは数々の海外支店を失った末、ウィーン銀行連合(Wiener Bankverein)と合併した(Niederösterreichische Escomptegesellschaft, オーストリア・ブラウンボベリの主要株主)。1942年ウィーン銀連と懇意のドイツ銀行に買収され、オーストリアにおける企業のアーリア化に関与することとなった。第二次世界大戦後の1946年に連合軍軍政下で国有化された。しかし法的形態は維持したままクレディト・アンシュタルトとして営業、マーシャル・プラン借款の発行幹事として活躍した。 1954-55年の法改正により終戦からの財務諸表作成と資産再評価を許され、1957年に政府保有株が40%売却された。1964年からはリテールに進出し、個人貸し出しの国内普及を草分けた。1971年EBIC(Electronic Banking Internet Communication Standard)に出資・加盟した。1975年ハンガリーへ代理店をつくって、西陣営では旧コメコン加盟国へ出店した最初の例となった。1983年ニューヨークに支店を設け、ベルリンの壁崩壊後バルカン諸国で金融ノウハウの指導にあたった。1991年に完全民営化を認める法律が成立して新たに10%が売却され、政府保有分は50%になった。1992年、スロベニアのノヴァ銀行(Nova Ljubljanska banka)を買収した。
※この「クレディタンシュタルト」の解説は、「オーストリア銀行」の解説の一部です。
「クレディタンシュタルト」を含む「オーストリア銀行」の記事については、「オーストリア銀行」の概要を参照ください。
- クレディタンシュタルトのページへのリンク