古典派経済学とペコラ委員会
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「世界恐慌」の記事における「古典派経済学とペコラ委員会」の解説
共和党のフーヴァー大統領は古典派経済学の信奉者であり、国内経済において自由放任政策や財政均衡政策を採った。その一方で1930年にはスムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採り、世界各国の恐慌を悪化させた。1931年、クレディタンシュタルトの倒産を受けて6月からフーヴァーモラトリアムを施行した。合衆国内の銀行は9月に305行が、10月に522行が閉鎖した。9月中旬から10月末にかけてヨーロッパへ金が流出したが、連邦準備制度から出ていった金は総額7億5500万ドル相当であった。この年の純輸出5億ドル超を差し引いての結果であった。流出を防ぐために連邦準備制度は公定歩合を10月9日に1.5%から2.5%に、16日には3.5%に引き上げた。 1932年3月にペコラ委員会が発足し、やがてジャック・モルガンのインサイダー取引を暴いた。同年後半から1933年春にかけてが恐慌の底辺であり1933年の名目GDPは1919年から45%減少し、株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止した。家を失い木切れで作った掘っ立て集落は恨みを込めて「フーバー村」と呼ばれ、路上生活者のかぶる新聞は「フーバー毛布」と言われた。景気が底を打って、クローズド・エンド型もとい財閥の投信会社は、電力・ガス事業から資本を引揚げ、その保有銘柄を一般産業に分散し、結果として保有銘柄数を増やした。
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