家庭崩壊と残債
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 07:43 UTC 版)
1923年のレポ貸出拡張とレンテンマルクによってインフレは収束していた。翌1924年のドーズ案がマルクをさらに安定させた。スチンネス家は事業の清算と返済に専心すべきであったが、債権国の非難した国外事業まで拡大させていた。物的価値で支えられたスチンネス・コンツェルンは、借入金に対する資産価値を暴落させていたのである。 スチンネス・コンツェルンがベルリンとハンブルクに分裂した。ベルリンの社長は長兄が承継し(Edmund)、ハンブルクの社長には次男が就任した(Hugo Hermann Stinnes)。フェーグラーはドイツ・ルクセンブルク鉱業会社から離れて、オーストリアのアルピネ鉱山会社(Alpine-Montangesellschaft)会長となった。1925年3月に長兄がノルトステルン保険(Nordstern)やアガ自動車(Aktiengesellschaft für Automobilbau)等を引取って引退するまで次男はコンツェルンを拡張した。 次男は主にダルムシュタット銀行から借りていた。1925年6月5日、彼はライヒスバンクで債権者20行を前に3000万マルクの支払不能を声明した。ほどなく差押資産の価格が債務整理の想定より低いことが分かり、さらに続々と新しい債権者が現れて債務が増加した。結局、スチンネス・コンツェルンは全事業を売却することになった。ベルリン商業銀行の株式はカール・フュルステンベルク(Carl Fürstenberg)のコンソーシアムにおよそ1000万マルクで譲渡された。本丸のドイツ・ルクセンブルク鉱業会社は、1250万マルクという法外な安値で、シュローダーとディロン・リード(Dillon, Read & Co.)に売却された。シーメンス・シュッケルト(Siemens-Schuckertwerke)株の塊は、3000万マルクでシーメンス家の関係するコンソーシアムに売却された。バロペル鉛業会社(Baroper Walzwerk)株式550万マルクおよび同優先株120万マルクは、たったの50万マルクでヴォルフ・ネッター・ヤコビ(Wolf Netter & Jacobi)に買い戻された。褐炭・石油事業は現存するBASFへ1650万マルクで売却された。各自治体も競売にふるって参加したが、特にプロイセン州はRWE持分を1200万マルクで入手したのみならず、ポメルン州にコンツェルンが所有していた森林を190万マルクで買い入れた。ホテル事業は長く売れ残った。貿易事業の処分は最も困難で、旧友などを頼ることとなった。ノルトステルン保険は長兄が多数の株式をエドアルト・フォン・デア・ハイト(Eduard von der Heydt)のコンソーシアムに110万マルクで売却した。 スチンネスの債務整理と残債が欧州のシステミック・リスクに発展し、クレディタンシュタルト破綻の遠因となった。
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