家庭教師のキャリアと破れた恋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:12 UTC 版)
「マリ・キュリー」の記事における「家庭教師のキャリアと破れた恋」の解説
1883年6月12日にギムナジウムを優秀な成績で卒業した。 しかし当時、女性には進学の道は開かれていなかった。父は、マリを1年間、親戚やかつての教え子が住む田舎で息抜きさせ、彼女は自然の中でのんびりした生活を堪能した。 その後ワルシャワに戻ってチューターなどを務めていたが、ピャセツカという女性教師の紹介で非合法の「さまよえる大学(英語版)(ワルシャワ移動大学)」で学ぶ機会を得た。その頃、姉ブロスニワバがパリで薬学修学のために貯金をしていたため、マリは申し出て働き、姉を援助することを決めた。1885年からマリは住み込みの家庭教師を始めた。最初はクラクフの法律家一家で、その後チェハヌフ(英語版)で農業を営む父方の親戚筋に当るゾラフスキ家でガヴァネスとなった。ここで勉学に打ち込んだ彼女に、ワルシャワ大学で数学を学んでいた一家の長男カジュミェシュ・ゾラフスキ(英語版)が惹かれ、ふたりは恋仲となった。しかし、カジュミェシュが結婚の希望を両親に告げると、社会的地位の違いを理由に猛反対された。彼女は失意のまま契約の2年間を終えると チェハヌフを去り、バルト海沿岸にあるソポトの町に住むフックス家でさらに1年間家庭教師の仕事を続けた。 1890年3月、数か月前に医師カジュミェシュ・ドウズキ(ポーランド語版)と婚約した姉ブロスニワバがパリで一緒に住むよう誘う手紙がマリに届いた。だが彼女は断る。父や姉の元にいると決めたこと、ワルシャワの家庭教師の仕事が順調で、ワルシャワ移動大学での勉学に楽しさを感じていること、留学するには蓄えが充分ではないこと、そしてカジュミェシュ・ゾラフスキを忘れられずにいたことが理由であった。彼女は家庭教師をする傍ら、オールドタウン近郊のクラクフ郊外通り(英語版) 66にある農工博物館(英語版)の実験室で科学研究の技能習得に努めた。この実験室はサンクトペテルブルクでロシアの著名な化学者ドミトリ・メンデレーエフの助手を務めたこともあるいとこのユゼフ・ボグスキー(ポーランド語版)が管理しており、またロベルト・ブンゼンに学んだN. Milicerも彼女を指導した。 転機は1891年秋に、彼女にとって決して幸福ではない形で訪れた。結婚は認められなかったが、カジュミェシュ・ゾラフスキとマリは連絡を取り合っていた。そして9月、2人はザコパネで避暑の旅行を共にした。もうすぐ24歳になるマリは膠着した人生に変化を期待したが、彼は優柔不断で何も決断できずにいた。そのため2人は喧嘩別れしてしまい、マリは自らフランス行きを決意した。 一方のカジュミェシュ・ゾラフスキは、博士号取得後に数学者としての履歴を積み、またヤギェウォ大学の学長、ワルシャワ教育庁の長官まで上り詰めた。だが晩年には、1935年に建てられたマリ・キュリーの銅像の前に座り込んで何かの想いにふける、ワルシャワ工科大学の老教授となった彼の姿が見られたという。
※この「家庭教師のキャリアと破れた恋」の解説は、「マリ・キュリー」の解説の一部です。
「家庭教師のキャリアと破れた恋」を含む「マリ・キュリー」の記事については、「マリ・キュリー」の概要を参照ください。
- 家庭教師のキャリアと破れた恋のページへのリンク