キャンペーンの始まり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 15:15 UTC 版)
「スモーキー・ベア」の記事における「キャンペーンの始まり」の解説
第二次世界大戦勃発のはるか以前から米国林野局は山火事の対処にあたっていたが、戦争は森林火災の消火活動に新たな重要性・緊急性をもたらした。林野局はアメリカ国民に森林火災の危険性について教育するため、カラフルなポスターを利用し始めた。すでに屈強な男性のほとんどは兵役に服しており、西海岸での森林火災の消火に従事できる状況になかった。森林火災の危険性について教育された地域住民が、その発生を未然に防ぐことが望まれていた。 1942年8月13日、ディズニー5作目の長篇アニメ映画『バンビ』の封切りがニューヨーク市で行われた。その後まもなく、ウォルト・ディズニーは『バンビ』のキャラクターを行政による防火キャンペーンに登場させることを許可した。しかしながら、「バンビ」の政府への貸し出しは一年間の期限つきであり、その後には新たなシンボルが必要となった。新マスコットのモチーフとしてクマが選ばれた。その名はニューヨーク市消防局の英雄 "スモーキー" ジョー・マーティン(1922年の大火災にて火傷と視力喪失のなか任務を全うした消防士)にちなんだものだった。 スモーキー・ベアは1944年8月9日公開のポスターでデビューした。そのため8月9日がこのキャラクターの誕生日と見なされている。米国林野局が企画する協同森林火災防止キャンペーン(CFFP)の監督下で、アルバート・ステイルが最初のポスターのイラストを手がけた。最初のポスターでのスモーキーはジーンズとキャンペーン・ハットを身につけた姿で描かれており、バケツの水をたき火にかけて消火している。イラストの下には「スモーキーは言う - 注意すれば10の森林火災のうち9を防ぐことができる!」とのメッセージが書かれていた。1944年、ニッカーボッカー社がスモーキー・ベアの人形の製造許可を得た。同じく1944年には林野局の職員ルディ・ウェンデリン(英語版)がキャンペーンの専任アーティストに就任した。ウェンデリンは1973年に退職するまでの間、スモーキー・ベアの「マネージャー」と見なされていた。 第二次世界大戦中、大日本帝国が山火事を潜在的兵器として認識していたことも、山火事防止の重要性を高める一因となった。1942年9月のルックアウト空襲(英語版)において、日本軍はオレゴン州南西の沿岸森林地帯を炎上させようと試みて失敗していた。アメリカ側の計画立案者には、国民が山火事が戦争にもたらす悪影響を認識すれば、林野局による山火事撲滅キャンペーンに対してより協力的になるという思惑もあった。戦争の終盤、日本軍は山火事を利用する戦術を刷新した。日本軍は1944年11月から1945年4月にかけて、約9000個の風船爆弾をジェット気流に乗せて飛ばし、そのうち推定10パーセントがアメリカ本土に到達した。最終的な風船爆弾の効果は、1945年5月5日にオレゴン州ブライ周辺で、5人の学童とその教師エルシー・ミッチェルの命を奪ったのみにとどまった. 。6人の死の後、現在ミッチェル・レクリエーション・エリア(英語版)と呼ばれる場所に記念碑が建立された。 1947年、その後50年以上にわたって使用される「忘れるな……。キミだけが森林火災を防ぐことができる」というスローガンが考案された。2001年、このスローガンは正式に修正され、「森林火災」が「山火事」という語に置き換えられた。この変更は、森林以外の場所(草地など)も火災の発生場所となり得ることを注意喚起するために行われた。
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