キャンペーンの後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/28 16:32 UTC 版)
「スノー・キャンペーン」の記事における「キャンペーンの後」の解説
キャンベル知事はタマー艦上での生活を続けており、3隻目の艦船が到着した後でジョンソン砦への攻撃を検討した。しかし、愛国者部隊は活発に港の防御を固めていたので、イギリス艦隊は1776年1月にチャールストンを離れた。ヘンリー・クリントン将軍が率いたイギリス軍がチャールストン港のサリバン島を攻撃したのが1776年6月であり、これに失敗すると1778年後半までイギリス軍による南部での大きな作戦展開は無くなった。 このスノー・キャンペーンで田園部におけるロイヤリストの大規模な活動は無くなることになった。捕虜になったロイヤリストの多くは愛国者側指導層の「田園部友邦に対する懐柔の姿勢」として解放された。ロイヤリスト指導者の中には捕獲を逃れて逃げ出した者もいた。その中でも著名なのはサウスカロライナの土地所有者トマス・ブラウンであり、東フロリダに逃亡した。ブラウンはジョージアとフロリダの国境でゲリラ部隊を率いた。ジョージアからサウスカロライナを奪回しようというブラウンの作戦を、1778年から1780年にイギリス軍が実行することになった。
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