カンボジア内戦
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詳細は「カンボジア内戦」を参照 1968年に、クメール・ルージュは、公式にカンボジア全土で国家的な反乱を打ち出した。北ベトナムはこの決定を知らされていなかったものの、反乱が開始されてから、北ベトナム軍がクメール・ルージュにシェルターと兵器を援助した。こうした援助により、カンボジア軍が効率的に反撃することが不可能になった。その後の2年間で、ノロドム・シハヌークが止められなくなったために、反乱がより大きくなった。反乱が強大になったことで、政党はカンプチア共産党として正式に宣言した。 シハヌークは1970年に国家元首を解任された(カンボジアクーデター (1970年)(英語版))。ロン・ヌル首相は国民議会の後押しを受けてシハヌークを追放し、親米政権のクメール共和国を設立した。中国共産党の助言を受け、シハヌークは追放先の北京でクメール・ルージュと同盟を組み、クメール・ルージュの名目上のトップになって、中国を後ろ楯に亡命政府(カンプチア王国民族連合政府)を支配した。ロン・ヌル軍の弱点を明確に認識し、アメリカ軍が航空戦力以外でいかなる形態の紛争に参加させられるのを嫌ったものの、ニクソン政権(英語版)は新クメール共和国の支援を発表した。 1970年3月29日、北ベトナムはカンボジア軍に対し攻勢に出た。ソビエト連邦のアーカイブから明らかになった書類により、侵攻はヌオン・チアとの交渉の後にクメール・ルージュからの明確な要求でなされたものと判明した。北ベトナム軍はカンボジア東部の大部分を侵略して、押し出される前にプノンペンの15マイル (24km) 圏内に到達した。シハヌークの追放から3ヶ月後の6月までに、国の3分の1である北部全体から政府軍を一掃した。政府軍を打倒した後に、北ベトナム軍は、地方の反乱勢力に、奪取した新たな領土を渡した。クメール・ルージュはさらに南部と南東部で「解放された」地域を確立し、北ベトナムと独立に運用された。 シハヌークが訪問してクメール・ルージュへの支持を示すと、兵士の人員は6,000人から5万人に膨張した。新兵の多くは共産主義ではなく王を支持して戦った非政治主義の農民であり、ほとんど理解していなかった。 1975年までに、ロン・ノル政権が弾薬を切らしてアメリカからの支援が途絶えると、政権が崩壊するのは時間の問題だった。1975年4月17日に、クメール・ルージュがプノンペンを占領して内戦が終わった。
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カンボジア内戦
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北ベトナムの侵攻に呼応して、アメリカ軍と南ベトナム軍は共産勢力を追撃してカンボジアに侵攻した。 アメリカ軍の撤退は早期に行われたものの、共産勢力は駆逐されず、こうした状況から反政府勢力クメール・ルージュの勢力は伸張し、政府軍との間でカンボジア内戦が始まった。ロン・ノルは、アメリカへ支援を求めざるを得なかった。 1970年11月18日にニクソン大統領は、カンボジア政府への援助金1億5,500万ドル(8,500万ドルは軍事援助)を連邦議会に求めた。 ロン・ノル政権はシハヌークの中立政策で展開していた北ベトナム軍とベトコン追放の名目でニクソン政権を頼り金とCIAの支援を受け取ったが、それでクメール・ルージュの攻勢を止めることはできなかった。1971年4月20日、国会により元帥に指名され、1972年3月10日に国家元首に就任。同年3月13日に大統領に就任した。 ロン・ノル政権になって以降、北ベトナム・クメールルージュとアメリカ・南ベトナムに支援された政府軍の内戦は本格化し、人口密集地域を含むカンボジア全域に拡大され、数十万人の農民が犠牲となり、さらに難民が100万人以上、都市へ流入し、食糧輸出国であったカンボジアは食糧輸入国に転落した。
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