カロヤン・ヨアニッツァの時代
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「第二次ブルガリア帝国」の記事における「カロヤン・ヨアニッツァの時代」の解説
兄たちの跡を継いで皇帝に即位したカロヤンは、かつてのシメオン1世と同様にビザンツ帝国を見本とした国家を作るために積極的な外交政策を推し進める。 カロヤンは国内の貴族層に厳格な処置を下して政権を固め、独立状態にあったマケドニアとロドピのブルガリア人支配者、亡命先のビザンツで統治官に任命されていたイヴァンコと同盟を結ぶことに成功する。1201年に北ブルガリアに残る最後のビザンツ領であるヴァルナがブルガリアの占領下に入り、翌1202年にブルガリアと東ローマ帝国の間に和約が締結され、ブルガリアが占領した地域の獲得が正式に承認された。また、1203年に一時期ハンガリーに再占領されたベオグラードとブラニチェヴォを奪還し、帝国の北部からハンガリー人を放逐した、 カロヤンはブルガリア正教会の独立を回復するためにローマ教会との関係を強化し、1199年からブルガリアとローマ教会の交渉が開始された。1202年から交渉は活性化し、1204年秋にローマ教皇からの使節がタルノヴォを訪問した。カロヤンはローマの使節である枢機卿レオからブルガリアの「王」に戴冠されるが、カロヤンは皇帝の称号が授与されたとみなして「ブルガリア人とワラキア人の皇帝」を自称した。同年にブルガリアがローマ教会の権威を認める協定が結ばれ、建国時から続いていたハンガリーとの戦争が終息する。協定の締結後にブルガリア正教会がローマ教会からの干渉を受けることはほとんどなく、ブルガリア正教会は実質的には東方正教会に属していた。 1204年に西欧から派遣された第四回十字軍によってコンスタンティノープルが征服され、ラテン帝国が建国される。ラテン帝国の初代皇帝ボードゥアン1世は、ブルガリア人は隷属民であると宣言し、ブルガリア侵略の意思を顕わにした。ローマ教皇インノケンティウス3世はブルガリアとラテン帝国の対立を解消しようとするが、教皇の試みは失敗に終わる。ラテン帝国軍はトラキアの北部、東部に侵入し、トラキアに避難していた東ローマ貴族は東ローマ帝国の帝位を条件にブルガリアに保護を求めた。要請に応えたブルガリアは東トラキアの住民反乱を扇動し、またフィリッポポリス(現在のプロヴディフ)とアドリアノープル(現在のエディルネ)を占領した。 翌1205年4月14日にカロヤンはアドリアノープル(現在のエディルネ)付近の戦いでラテン帝国軍に大勝を収め、ラテン皇帝ボードゥアン1世を捕らえて処刑した。しかし、ブルガリアの軍事的成功はトラキアの東ローマ貴族に不安を与え、彼らはブルガリアとの同盟を解消してラテン帝国の側に付いた。カロヤンは裏切りの報復として東トラキアを破壊・略奪し、征服地の住民をドナウ川沿岸部に移住させた。カロヤンはかつて「ブルガリア人殺し」と呼ばれたバシレイオス2世のように「ローマ人殺し」の渾名で呼ばれるようになる。 カロヤンは1207年までに第一次ブルガリア帝国が領有していたマケドニア地方の大部分を再征服するが、同年のテッサロニキ包囲中に部下の裏切りによって急死する。カロヤンの死後、暗殺の首謀者であるカロヤンの甥ボリルが帝位を簒奪し、帝位の継承権を有していたアセン1世の子イヴァン・アセン(後のイヴァン・アセン2世)とアレクサンダルの兄弟はルーシのガリツィア公国に亡命した。 ボリルの即位後、ブルガリアの封建貴族は再び自立性を強め、ロドピ、中部マケドニアの地方領主は中央から独立した統治を行い独自に外国と同盟した。即位当初ボリルはカロヤンと同じく反ラテン帝国路線を取るが、1214年にブルガリアはローマ教会の介入によってラテン帝国とハンガリー王国の二国と和平を結んだ。一方、ブルガリア国内では貴族層と民衆の両方がボリルの統治に不満を抱くようになり、ヴィディンではボリルに対する反乱が発生した。 1217年にイヴァン・アセン2世は傭兵を率いてブルガリアに帰国し、ボリルに戦いを挑んだ。7か月に及ぶ包囲の後に市民が城門を開いてイヴァン・アセン2世を迎え入れ、1218年春にイヴァン・アセン2世はボリルを廃位して帝位に就いた。
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