カナダからの撤退
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「ベネディクト・アーノルド」の記事における「カナダからの撤退」の解説
「シーダーズの戦い」および「バルカー島の戦い」も参照 1776年5月、大陸会議の代表団がモントリオールを訪問しているときに、イギリスの大艦隊がケベック市に到着し始め、大陸軍は急遽ケベック市から撤退することになった。この5月にアーノルドがソレルの町で撤退する軍の指揮官や大陸会議の議員と作戦会議を開いている間に始まったイギリス軍とインディアンによるシーダー砦攻撃によって、アーノルドのモントリオール支配は困難なものになった。アーノルドはこれに対応するためにモントリオールに戻って、時宜良く得た援軍の助けもあり、シーダー砦の守備隊を捕まえていたイギリス軍との捕虜交換に合意した。この出来事への対処を話し合う作戦会議の席で、アーノルドは第2カナダ人連隊の指揮官であるモーゼス・ヘイズンと激しい応酬をした。このことが両名の軍法会議にまで繋がる一連の論争の始まりとなった。 アーノルドは続いてモントリオールに駐屯する大陸軍守備隊の撤退準備を始めた。大陸会議議員の指示に従って地元の商人から物資の確保を始め、商人達が後に求償できるように物資の受取証を発行した。物資を供給した商人を識別するために印が付けられた物資は6月初旬にシャンブリー砦に向けて船積みされた。そこの指揮官だったヘイズンは、彼の知っている商人からそれらの物資を違法に奪ったものだと信じて、物資の保管を拒否した(ヘイズンは近くのセントジョンズ砦に資産を所有していて商売上の利権もあったので、モントリオールの商人とは親しくしていた)。 アーノルドはヘイズンの行動に対して怒ったが、それを抑える必要があった。イギリス軍がセントローレンス川を遡って急襲し、アーノルドは捕まりそうになった。ソレルに派遣した伝令からモントリオール市に接近しているイギリス艦船の存在を知らされた。アーノルドはイギリス軍が到着する前に市内を燃やそうと考えて、出発前に点火を命令し、その後セントジョンズ砦に行って、退却中の軍隊の後衛に合流した。アーノルドは部隊兵にシャンプレーン湖でイギリス軍が使えそうな船を焼却あるいは沈船で破壊するよう指示し、砦や近くの工作物にも火を点けさせた。アーノルドはセントジョンズ砦を脱出する前にイギリス軍の前衛が視界に入るまで待機したとされており、その後リシュリュー川を上ってシャンプレーン湖に向かった。 その後1776年の夏を使って湖を支配するために小さな戦闘艦と砲艦の船隊建造を指示し、イギリス軍の進行を遅らせ、シャンプレーン湖に自由に接近できないように図った。イギリス軍はセントジョンズでさらに大きな船隊を造り上げることで対抗し、10月には進水させた。10月半ばのバルカー島の戦いでイギリス軍はアーノルドの船隊を打ち破った。しかしこの時はもう冬が始まっており、イギリス軍の侵攻が止まった。アーノルドの防衛戦略は成功したと言える。 アーノルドは船隊を建造させている間に、ヘイズンをシャンブリーでの出来事に関して職務怠慢の廉で逮捕するよう命じた。ヘイズンは政治的にコネを作るのが上手な人間だったので(第2カナダ人連隊を指揮する発令はケベックの戦い後に大陸会議議員の前にヘイズンが出頭した後に行われた)、アーノルドの告発を逆手に取り、アーノルドが問題の物資を盗み、物資を輸送することを任された士官が途中でそれらを損壊させたとして反論告発した。その士官であるスコット少佐は軍法会議の席に出ていたが、(明らかに利害の対立する当事者であるにも拘らず)証言することができなかった。軍法会議ではヘイズンを無罪とし、アーノルドの逮捕を命じた。この会議を主宰したホレイショ・ゲイツ将軍が、近付くイギリス軍の攻撃に備えて、アーノルドの従軍が是非とも必要だと主張して、その逮捕状を取り消した。ヘイズンの告発に対してアーノルドが沈黙したことは、人々が抱いていたアーノルドに関する評価を裏付け深まらせることになった。アーノルドに好意的だった者は、理不尽な告発に対する尊厳ある無反応だと認識し、一方アーノルドを嫌悪していた者は現場を掴まれた者の反応だと見なした。歴史家達は、アーノルドが実際に違法なことに関わっていたのかについて今なお議論を続けている。大陸会議代表のサミュエル・チェイスはアーノルドに「貴方の最良の友は自国の民ではない」と警告した。 11月には、タイコンデロガ砦に居た軍隊の大半が、ニュージャージー植民地に居るワシントン軍の支援のために南に移動するよう命じられた。アーノルドはオールバニで再度公式の告発に直面した。ブラウンとヘイズンがそれぞれアーノルドの以前の行動に関する告発書を提出した。ヘイズンはアーノルドが以前にヘイズンに対して突きつけた告発について名誉棄損の廉で告発し、ブラウンは様々な小事で告発したが、特にアーノルドがケベックの軍隊に意図的に天然痘を流行らせたこと、セントジョンズ襲撃時に「敵軍への逃亡を図ろうとした反逆行為」を行ったという2件が特筆ものだった。ゲイツ将軍はブラウンの告発に関する審問を拒否し、軍法会議でヘイズンに対するアーノルドの告発は「ヘイズン大佐の人格に対する中傷」となると判決したが、罰則は科さなかった。1776年から1777年に掛けての冬、ブラウンはアーノルドについて「金がこの男の神であり、それを十分に得られるなら自分の国も犠牲にすることだろう」と主張するチラシを出版した。
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