オキーチョビー湖とエバーグレーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/17 06:14 UTC 版)
「オキーチョビー・ハリケーン」の記事における「オキーチョビー湖とエバーグレーズ」の解説
ハリケーンは内陸に進んで人口の多いオキーチョビー湖岸に沿って、さらに幅広い破壊を引き起こした。住民はその日早くに低地から避難するよう警告を受けていたが、想定された時間には遅れた後で、多くの者がハリケーンは逸れたと考え、自宅に戻った。このハリケーンが来る数週間前の8月10日から9月10日の間で、湖水の水位を3フィート (0.91 m) 上げ、近くの運河や溝を満水にしていた。ハリケーン自体による降水で、オキーチョビー湖の水位をさらに上げた。ハリケーンの最悪のときに湖の上を過ぎ、南向きの風が水位を上げ、湖の南端に建設されていた小さな堤を越えさせた。その結果おきた洪水は数百平方マイルの地域を水浸しにし、水深が20フィート (6 m) にもなる場所もあった。家屋はその基礎から浮き上がって流れ、途中で出逢う障害物に当たって砕けた。生存者も遺体も流されてエバーグレーズに流れ込み、遺体の多くは発見されなかった。オキーチョビー湖を囲む地域の農業被害も重大であり、事実上全ての農作物が破壊され、150台を超えるトラクターが損傷した。 この地域をハリケーンの目を囲む壁の後側が通り過ぎるときに、洪水も反対側に及び、湖の北岸にあった堤を破り、南側と同様だがやや小さい洪水を生じさせた。アメリカ国道98号線は当時コナーズ・ハイウェイと呼ばれ、オノソハッチー川をテイラークリークで渡す橋がハリケーンの間に約150フィート (46 m) 上流に持っていかれ、新しい橋が建設された1月まで閉鎖された。オキーチョビー郡では、湖岸に沿った家屋が高潮で破壊され、オキーチョビー市内の家屋は少なくとも90マイル/時 (40 m/s) で吹いた風で大破あるいは破壊された。しかし、レンガやコンクリート造りの家屋はあまり損傷を受けなかった。多くの3階建て企業用ビルが倒壊した。ほとんど全ての道路が通行不能となり、通信手段もほとんどなくなった。オキーチョビー郡全体で27人が死亡した。オキーチョビー湖の南西岸では、クルウィストンとムーアヘイブンの町も洪水となったが、家屋が受けた損傷の大半は強風によるものだった。 クリーマー島では、多くの住人がハリケーンの情報を得たが、避難するには遅すぎたタイミングだった。幾つかの家屋では20ないし30人の人々が室内で逃げ場を求め、テーブルや椅子の上に立って、水より上に居られる状態を保った。家屋の多くが松の木の並びまで流され、半マイル (0.8 km) 流された家もあった。それにも拘わらず、この島で溺死したのは1人だけだった。トーリー島の住人も嵐に備える時間があまり無かった。彼らは避難しようとしたが、土手道が既に浸水しており、食品加工場を避難所とした者が23人いた。この建物にも浸水し、人々は筏の上に乗った。しかし、建物自体が近くの運河に流された。10人が溺れたが、13人は艀あるいは木の先端にしがみ付いて助かり、1人の女性は電話線の柱に自分を縛り付けて助かった。助かった他の者は遠く流されたが、建物自体が鎮座するか艀に当たって止まった。1人のティーンエージャーの少年が食品加工場からベルグレードのエバーグレーズ実験ステーションまで流されており、その距離は約8マイル (13 km) あった。リッタ島では、なんとか自宅の屋根の上に昇れた多くの者が流木に撃たれたり、ヌママムシに噛まれて死亡したりした。 サウスベイでは、ほとんど全ての家屋が破壊され、幾つかの建物は屋根が飛ばされた。市内で少なくとも160人が死亡した。1920年代を通じてオキーランタの町は数回洪水が起こり、泥炭の火災も起きていた。最後はこのハリケーンで大変な洪水を受け、最後は町が放棄された。ビーンシティもこのハリケーンで破壊されたが、アーサー・ウェルズによって再建されることになった。セブリング農園は大量のゴムの山となり、背の高いヤシの木4本が残るだけとなった。マイアミロックスではホテルのみが残った。この町では99人が死んだ。チョーズンでは19人が退避した家から2人だけが何とか脱出できた。他の住人20人がある建物を避難場所としたが、その屋根がハリケーンで持っていかれ、人々はレストルームへの移動を強いられた。人々で一杯のある家屋は元々あった場所から約半マイル (0.8 km) 流された。その家が鉄道の堤に衝突するまで、その避難民は家が流されていることに気づかなかった。 洪水の水は数週間残り、瓦礫の除去を大きく遅らせた。埋葬は直ぐに間に合わなくなり、遺体の多くが共同墓地に置かれた。死者の75%は移民農業労働者であり、遺体の識別や行方不明者の同定を大変難しくした。その結果、死者の数を数えても大変不正確なものになった。赤十字社は死者の数を1,836人としたが、これがアメリカ国立気象局がその後長く採用した公式の数字となった(これはハリケーン・カトリーナの場合も全く同じだった)。古い資料では、カリブ海での死者を含め、このハリケーンによる死者を3,411人とするのが普通である。しかし、2003年、アメリカ合衆国での死者数を「少なくとも」2,500人と改訂し、アメリカの自然災害史の中では、1900年ガルベストン・ハリケーンに次いで2番目に被害の大きいものとした。ポートマヤカの東にあるポートマヤカ墓地の共同墓地は、このハリケーンによる被害者の遺体1,600体が納められている。
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