エドモンド・エヴァンスとの出会いと『窓の下で』
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「ケイト・グリーナウェイ」の記事における「エドモンド・エヴァンスとの出会いと『窓の下で』」の解説
1876年、子供向けの人気雑誌「リトル・フォークス」にケイトの線画が採用され、やがて1877年にはアメリカの子供向け雑誌「セント・ニコラス」にも使われるようになった。同年、ケイトの父は、かつての同僚であるエドモンド・エヴァンスに手紙を出し、ケイトの作品を見てもらおうと面会を申し込んだ。エヴァンスはフリート街でカラー印刷業を営み大成功を収めており、グリーナウェイ夫妻は彼と組めばケイトの成功が約束されると考えたのである。エヴァンスは、ケイトと父親をサリー州の自宅に招き、彼女のポートフォリオを見て、美学運動の流れを汲む彼女のスタイルに大きな可能性を見出した。ケイトの絵に描かれている女性たちは、人気の高い「グリーン・ギャラリー」という色のゆったりとしたドレスを着て、ウィリアム・モリス風のい草の底の椅子に座り、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティが流行させた青と白の陶器のカップでお茶を飲み、日本の花木に囲まれたひまわりの咲く庭で踊っていた。 エヴァンズは、ケイトの作品を印刷することは大きなチャンスだと考えていたが、添えられたケイトの詩が「文法的に意味をなさない」ことを問題視し、ケイトに詩人のフレデリック・ロッカー・ランソンを紹介した。ランソンは詩作の手伝いにとどまらず、ケイトをロンドン社交界に招待して有益な人脈を作らせ、裕福な市場に彼女のイラストを売り込んだ。1879年10月に発売された『窓の下』の成功は、ランソンの援助が適切であったことを示している。 素朴で牧歌的な子供の詩を集めた『窓の下』は瞬く間にベストセラーとなった。第1刷は2万部が発行されたが全く供給が足りず、店頭では1冊6シリングだった価格が10シリングにまで吊り上がった。エヴァンスは、『窓の下』をアメリカやヨーロッパで7万部まで増刷して販売するとともに、ケイトに急いで2冊目の本を考えるように促した。1880年のクリスマス商戦に向けて企画されたこの新刊「ケイト・グリーナウェイの子供のためのバースデーブック」はケイトの名前を前面に押し出し、人気絵本作家のルーシー・セール・バーカー(英語版)による詩が添えられていた。 『窓の下』に続く『バースデーブック』の成功により、ケイトの生活は大きく変わった。ランソンはケイトの親友となり、共にディナーやパーティーへ招待され、ハイソサエティな音楽イベントや劇場での夜の催しなどにも出席するようになる。こうした日々の中で、社交界を代表するホステスであるレディ・ジューンと出会ったケイトは、彼女の紹介でドイツの皇太子妃ヴィクトリアと面会し、裕福なパトロンからは子供たちの肖像画を依頼され、ロイヤル・アカデミーでの展示会に招待されるようにもなっていった。しかし彼女は、そんな自分のことを「美しい鳥の中のカラス」と表現するなど、自分を取り巻く環境に違和感を覚えている。 人気作家として注目を集める反面、ケイトは批判も多く浴びるようになり、1880年の『パンチ』では、ランドルフ・コルデコットやウォルター・クレインと並んでパロディにされている。また1881年9月に出版した童謡集は失敗に終わった。しかし1883年に出版した『Little Ann and Other Poems』はヒットし、他の挿絵画家がケイトの描く子供たち『グリーナウェイ・チルドレン』の模写を求められるほどの反響を得る。女性作家は報酬などの待遇で不当な差別を受けがちだったが、ランソンはケイトが受け取る印刷会社や出版社からの報酬が、男性作家と同等になるように配慮していた。
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