エクリプス (競走馬)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/25 09:39 UTC 版)
| エクリプス | |
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エクリプスの肖像、ジョージ・スタッブス画
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| 欧字表記 | Eclipse[1][2] |
| 品種 | サラブレッド[2][注釈 1] |
| 性別 | 牡[2] |
| 毛色 | 栗毛[1][2] |
| 生誕 | 1764年4月1日 |
| 死没 | 1789年2月27日 |
| 父 | Marske[1][2] |
| 母 | Spilletta[1][2] |
| 母の父 | Regulus[1][2] |
| 生国 | イギリス[2] |
| 生産者 | カンバーランド公爵[1] |
| 馬主 | ウィリアム・ワイルドマン →デニス・オケリー |
| 調教師 | ジョン・オークリー[注釈 2] |
| 競走成績 | |
| 生涯成績 | 18戦18勝 |
| 獲得賞金 | 2149ギニー |
エクリプス(Eclipse、1764年 - 1789年)は、18世紀後半に活躍したイギリスの競走馬・種牡馬である。18戦18勝の戦績を持つ。サラブレッドの基礎を作ったと言われる。名言「Eclipse first, the rest nowhere.」(唯一人抜きん出て及ぶ者なし)で知られる。
概説
歴史的背景
エクリプスが生まれた18世紀中頃は、ダービーステークス等今日知られている競走も行われておらず、王族などが開催する一部の競走[注釈 4]を除けば、貴族や富豪が相互に賭け合い勝負をするという形で競馬が行われていた時代である。また競走形態も後世のものとは異なり、同じ馬で長距離レースを何度も戦って勝負を決するという形式のもの(ヒートレース)が盛んに行われた。この時代の競走馬といえば、主に東方(アラビア半島や北アフリカ、小アジアなど)から輸入あるいは略奪してきたアラブ種系の馬のことを指していた[4]。サラブレッドはまだ成立しておらず、競走馬といえば単にランニングホースと呼ばれていた。エクリプス自身も競走馬時代はサラブレッドと呼ばれたことはないはずである。この後エクリプスやヘロド、マッチェム、スナップなどが基礎となりサラブレッドという品種が徐々に成立していくこととなる。1791年の『ジェネラルスタッドブック』序巻の発刊をもってサラブレッドの成立とすることが多い。
競走馬として
このような時代に生まれたエクリプスは、極めて激しい気性を持ちながらも当時の競馬に適応した。18戦18勝(うちヒートレース7、マッチレース1、単走8)という成績を残し、かつ全ての競走が楽勝だった。エクリプスは18世紀の最強馬とされることが多い。少なくともこの時代最も重要な競走馬であり、かつ後世に最も知られているというのは確かである。
ただし当時既にドイツなどでも競馬が行われていたはずであり、そちらとの力関係は現在では知るすべはない。現在に繋がるイギリスの競馬はともかく、相次ぐ戦争などで衰退する大陸ヨーロッパの競馬は忘れられていった。イギリスにも同世代にゴールドファインダー(13戦不敗、エクリプスとは未対戦に終わる)という競走馬がいたが、こちらも現在ではあまり議論される対象には挙がっていない。また、エクリプス自身の記録についても不明瞭なものが多く、この18戦のほかにも記録に残っていないものがあるといわれている。残されている逸話も真偽不明なものが幾つかある。
種牡馬として
エクリプスは種牡馬としてポテイトーズやサージェントなどの父となり、この時代としては非常に多い344頭の産駒が競馬で勝利した。ダービーステークスは1780年の創設で、当時既にエクリプスは晩年にさしかかっていた中で3頭の優勝馬を送り出した。父の父や母の父としても優秀で、サラブレッドの成立にも貢献した。今日のサラブレッドの父系(サイアーライン)を遡っていくと約95%がポテイトーズとキングファーガスというエクリプスの2頭の産駒にたどり着くとされ、これらを総称してエクリプス系と呼ばれる。同時代の種牡馬であるマッチェム(2%)やヘロド(ごく少数)の影響力を大きく上回っている。
生涯
誕生
エクリプスは1764年4月1日の日食[注釈 5]の日に生まれた[7]。馬名はこの日食に由来し、『ジェネラルスタッドブック』第1巻には「エクリプスの名は、すべての競走相手を凌駕 (eclipse) したからではなく、日食 (eclipse) の日に生まれたことに因み名付けられた」と注釈がある[1]。生産者はヘロドも生産したイギリス王族の軍人カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス王子である[1][8][3]。
一方この時代、まだ血統書や成績書などは整備されていなかったため[注釈 6]、分かっていないことも多い。生誕地はウィンザー・グレート・パークにカンバーランド公が所有していたクランボーン・ロッジ(バークシャー州ウィンザー)の牧場であると考えられているが[5][9][10]、他にもカンバーランド公のもう一つの邸宅であったカンバーランド・ロッジ[11]や所有する厩舎があったバークシャー州イースト・イルスリー近くのキーツ・ゴア (Keats Gore)[5][12][注釈 7]、さらにサリー州ドーキング近くのミクルハム[11][13][注釈 8]、バークシャー・ダウンズ[11][5][注釈 9]、ミドルセックス州アイル・オブ・ドッグズ[11][13][注釈 10]といった異説がある。
エクリプスの毛色は『ジェネラルスタッドブック』には栗毛と登録されている[1]。ブレイシー・クラークはより詳しく「明るい栗毛 (light chesnut) または赤味がかった栗毛 (sorrel-chesnut) で、右後肢に長白と顔に大流星鼻梁白があった」と描写している[14]。
デビューまで
1歳になった1765年、カンバーランド公が死亡したためエクリプスを含め彼の所有馬は全てセリ市に出された[16]。羊の売買商[9]ウィリアム・ワイルドマンは、下見をした上でエクリプス目当てにセリ市に参加したが[17]、彼が到着したとき既に同馬は70ギニーで落札されてしまっていた[8][17][18]。ワイルドマンは諦めずにセリが公示時刻よりも早く始まっていたことに抗議し、再度行われたセリにて75ギニーに競り上げエクリプスを手に入れる事に成功した[8][17][18]。
ワイルドマンはこうしてエクリプスを手に入れたものの、同馬は非常に気性が荒く、一時は去勢を検討するほどであった[3][19]。しかし、結果として思いとどまり[20]、ワイルドマンはエプソム近郊の荒馬乗りであるジョージ・エルトンのもとにエクリプスを送り出した[3][21]。エルトンは調教のためエクリプスを昼夜問わず酷使し、時には夜通し密猟に駆り出した[21]。そして、ようやく1769年になって、エクリプスは5月にエプソム競馬場で行われる4マイルのヒートレースに出走することとなった[20][注釈 11]。
エクリプスをデビューさせるにあたりエプソムダウンズで試走させたところ、予想屋が情報を聞きつけて集まってきた[22][23][注釈 12]。しかし、到着した頃には既に試走は終わっていたため、予想屋がそれを目撃したとする老婆を見つけ様子を聞き出すと、その老婆は「あれが本当の競馬であったかどうかよくわからないが、右後一白の栗毛馬がものすごい形相をして疾走し、たちまち相手馬との差をどんどん広げていくのを見たのはたしかです。あの馬に追いつくには地の果てまで走り続けても……」と答えたという[22][注釈 13]。この噂によりデビュー戦の賭け率(オッズ)は1対4となったが、後にエクリプスの馬主となるデニス・オケリーは事前に情報を得ており、より有利なオッズで多額の賭けを行っていた[3][24][注釈 14]。
競走馬時代
1769年
1769年5月3日、エクリプスはエプソム競馬場のノーブルメン&ジェントルメンズプレート[注釈 15]でデビューした[23]。第1ヒートを楽に勝つと[20]、第2ヒートでは3マイルまでは他馬も離されずにいたが、エクリプスはそこから軽々と抜け出し、後続を240ヤード以上[注釈 16]引き離して勝利を飾った[25]。「Eclipse first, the rest nowhere.」という有名な言葉は、このときの賭けで生まれたといわれている(後述)[20][25]。
2戦目はアスコット競馬場でのノーブルメン&ジェントルメンズプレート[注釈 17]で、ここも楽勝[26]。さらに次走、6月13日にウインチェスター競馬場で行われたキングズプレートでは、同年にギルフォード競馬場のキングズプレートを制したスラウチらを下して勝利した[27]。少なくともこの競走の前日までには、ワイルドマンがオケリーにエクリプスの権利の半分を650ギニーで売り渡している[28][注釈 18]。その二日後、同じくウィンチェスターで行われたシティプレート[注釈 19]では、エクリプスの強さを恐れた馬主が皆回避したために単走となった[28]。次戦のソールズベリー競馬場で行われたキングズプレートもエクリプス以外の出走馬はなく[29]、そして、同地のシティプレート[注釈 20]に勝利した後は、カンタベリー競馬場、ルイス競馬場、リッチフィールド競馬場のキングズプレートを制し[29][注釈 21]、9戦9勝の成績でこの年を終えた[30][31]。
1770年
ジョン・ノット・サルトリウス画。エクリプス(左)に騎乗しているオークリーは、ワイルドマンの赤の勝負服を着用している[32]。
なおこれを原画にキャプションを「エクリプスとシェイクスピア」に差し替えたものが、ジョン・スコットの“Sportsman's Repository”(1820年)でエクリプスの父馬はシェイクスピアであるという説の補強に使用されている[32]。
4月17日、ニューマーケット競馬場のビーコンコースでビュセファラスとのマッチレースが組まれた[29]。相手はペレグリン・ウェントワースの所有馬で、1768年のグレートサブスクリプションパースに勝つなどエクリプスと同様これまで一度も負けたことがなかった[33]。ビュセファラスの前評判は高く[3]、それは4対6のオッズにも表れていた[34]。レースはエクリプスの先行で始まり、途中、ビュセファラスが迫る場面もあったが、同馬は結局力尽き、最終的にはかなり差が開いての決着となった[35]。この年の冬、又はおそらくビュセファラスとのマッチレースの後に、オケリーはワイルドマンに追加で1,100ギニーを支払い、エクリプスの権利を全て買い取って自身の所有馬とした[36][注釈 22]。
マッチレースに勝利した二日後、エクリプスは同地のキングズプレートに出走し、ダイアナ、ペンショナー、チガーに勝利した[37]。続くギルフォード競馬場、ノッティンガム競馬場、ヨーク競馬場のキングズプレートは全て単走となり、8月23日に同じくヨーク競馬場で行われたグレートサブスクリプションパース[注釈 23]では、ウェントワース所有のトルトワーズとチャールズ・バンベリー所有のベラリオを楽に退けた[38]。次戦のリンカーン競馬場のキングズプレートを単走で勝った後[39]、ニューマーケット競馬場の10月開催に出走、1戦目の150ギニーズプレートでコルシカンを破ると、2戦目となるキングズプレートを単走したのを最後に競走馬を引退した[40]。キングズプレートでは無敗馬ゴールドファインダーとの対戦も予定されていたが、同馬の故障によって実現せずに終わった[41][3]。
生涯成績は、当時の競馬成績書を数えると18戦18勝となるが、異説もある[注釈 24]。いずれにせよ無敗であったことは確実であり[42]、フライングチルダーズ以来の名馬というのが衆目の一致するところであった[8][43][44]。
種牡馬時代
引退後はオケリーのもとで種牡馬として供用された[9]。オケリーはエクリプスの種付料で25,000ポンドを稼いだという[45]。最初はサリー州エプソム近郊のクレイヒル (Clay Hill) に繋養されていたが、1788年には2頭立ての幌付き馬車でミドルセックス州エッジウェアのカノンズ[注釈 25]に移された[46]。これ以前に競走馬が車で移動した例は無く、馬運車に初めて乗った馬ではないかとも言われている[46][47]。
種付料は初年度が50ギニー、それ以後は20から30ギニーに下げられた[48][注釈 26]。種牡馬成績は、1774年にホライゾンという芦毛馬が勝利したのを皮切りに、ダービーステークス優勝馬のヤングエクリプス、サルトラム、サージェント、オークスステークス優勝馬のアネット、種牡馬として成功したポテイトーズ、キングファーガスなど、生涯で344頭の勝馬を出し[45]、その総獲得賞金は158,047ポンドに及んだが[49][50]、結果的に一度も首位種牡馬になることはなかった[51]。これは同時代にヘロド(首位種牡馬8回[52])とその息子ハイフライヤー(首位種牡馬13回[52])が活躍していたためで[51]、1778年から1788年の間には11年連続種牡馬ランキング2位という記録も作っている[10]。しかし、母の父としてはフェノメノンやスカイスクレーパーなど、ヘロドやハイフライヤーとの間に多くの名馬を出している[9]。
なお、1786年に開催された第1回ジュライステークスの施行条件には、エクリプス(とハイフライヤー)産駒は負担重量を余計に3ポンド背負わなければならないといった“奇妙な”条件が含まれていた[53][30]。
死
王立獣医学校設立のためにイギリスに滞在していたフランス人獣医師シャルル・ヴィアル・ド・サンベルの記録によれば、1789年2月25日の朝に激しい疝痛を発症し、治療の甲斐なく2月27日の午後7時に死亡した[54][55]。25歳であった。なお死亡日は20世紀以降の資料ではヴィアル・ド・サンベルと同じ27日[56][57][30][58]とするのが主流だが、19世紀の書籍を中心に28日[43][14][59][60][8][61]と記述するものも多く、他に『ジェネラルスタッドブック』などは26日[62][63][9]としている。
カノンズで行われた葬儀には多くの人が集まり、ゴドルフィンアラビアンのときと同様に弔いのためにビールと菓子が供された[64][59]。
死亡後
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死亡の際、シャルル・ヴィアル・ド・サンベルが検死(剖検)を行い、結果を“An Essay on the Proportions of Eclipse”としてまとめている[66][67]。彼は馬体の各部位の寸法を計測してその比率を求めたほか[68]、体高(地面から鬐甲までの高さ)を66インチ(16ハンド2インチ≒約167.6センチメートル)と推定した[69][10][注釈 27]。また心臓が14ポンド(約6.35キログラム)もあったと報告した[70][67]。
エクリプスの骨格は現存している。これはヴィアル・ド・サンベルの解剖の助手を務めたエドムンド・ボンド[注釈 28]にオケリー家から贈られたと思われ、ボンドの死後はブレイシー・クラークの所有となったが、当時はまだ組み立てられていなかった[66]。クラークは骨をジョン・ギャムジーがエディンバラに設立した新獣医学校 (New Veterinary College) に100ギニーで売却し、同校で初めて骨格標本として展示されるようになった[66][67]。同校が廃校になるとギャムジーは1871年に骨格を王立獣医師協会へ寄贈し、1920年からのロンドン自然史博物館への貸し出しを経て、1983年に国立競馬博物館が開館すると同館に展示されるようになった[66][67]。現在は王立獣医学校のエクリプス館で展示されている[71][72]。
なお、骨格標本からは蹄が失われており[71]、そのうちの一つを金の台座にあしらった物がジョッキークラブに所有されている[65]。骨格や蹄の他には、たてがみ、尾の毛、皮も遺されており、たてがみと尾の毛は、ニューマーケットチャレンジウィップというレースの賞である鞭[注釈 29]に編み込まれた[74][75]。皮は、所持していたマシュー・ドーソンの死に際して第5代ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズが入手し[76]、その後第6代ローズベリー伯爵ハリー・プリムローズからジョッキークラブに寄贈された断片が知られている[77][78]。
ただし、エクリプスの「遺品」とされるものには多くの偽物があったようで、“Eclipse & O' Kelly”において著者のセオドア・アンドレア・クックが調べたところによれば、エクリプスのものと「疑いようのない」骨格は6体、「本物の」蹄は9つもあった[79]。また、尾の毛や皮についても、1体の競走馬からとられたとは到底考えられない量が存在していたという[79]。
ヴィアル・ド・サンベルによる解剖はエクリプスの競走能力の秘密を解き明かそうとするものだったが[72][66]、骨格や血統の研究は現在も続いている。2005年にはエクリプスのデオキシリボ核酸 (DNA) が調査される予定であると英国放送協会 (BBC) やサラブレッドタイムズによって報道された[80][81]。記事には、イギリスの王立獣医学校とケンブリッジ大学の科学者が歯等に残された DNA を調査すると記載された。2012年に調査結果が報告され、王立獣医学校が所蔵するエクリプスの骨格のミトコンドリアDNA (mDNA) とその牝系子孫にあたる現代の馬の mDNA を比較したところ、この骨格が(複数の他の馬の骨が組み合わせられているのではないかという疑いに反して)ほぼ全てエクリプスのものであることが確かめられたという[72]。また、2006年には骨格と運動モデルが分析され、現在の馬とほぼ同じ特徴を持っていたと結論付けられた[82]。
後世への影響
後世への影響は非常に強い。サラブレッドの血統を父の父の父…という風に父方に辿ると殆どがエクリプスに辿り着くと言われており、その勢力は実に95%に達するとまで言われる[注釈 30]。また、母系を合わせてのサラブレッドへの血統的影響はヘロド程ではないが非常に強く、血量にして優に10%を超えている[注釈 31]。
しかしながら種牡馬となった当初はヘロド〜ハイフライヤー系の方が優勢で、実際に1780年から1839年までの60年間の首位種牡馬回数は、エクリプス系12回に対し、ヘロド系が43回とヘロド系の方が多かった(マッチェム系は5回)。オケリーは詩人を使ってハイフライヤーの馬主であるリチャード・タタソールに向かって「ハイフライヤーの産駒でヘロドの血の優秀性を証明して見せよ」と、どちらの血が優れるか投げかけてはいるものの、三大始祖[注釈 32]いずれの父系が優れるかの議論もヘロド系の方が優勢で、エクリプスはハイフライヤーに牝馬を提供するだけという極端な考えを持っていた馬主もいたようである[83][要ページ番号][84]。
だが、ヘロド系が優勢だったのは1830年頃までで、19世紀中盤以降ハイフライヤー系が衰退・滅亡するヘロド系に対し、ストックウェル、ニューミンスター、セントサイモン等大種牡馬を連発したエクリプス系が勢力を伸ばした。これ以後現在に至るまでエクリプス系優位が続いている。現在エクリプス系は主にポテイトーズとキングファーガスの2頭にさかのぼることができる(子孫についての詳細はエクリプス系を参照のこと)。
遺伝子
2018年のシドニー大学を中心とした研究グループの報告によると、2000年から2011年にオーストラリアで走ったサラブレッド13万5572頭の全血統表、更に抽出した128頭の常染色体塩基配列の一塩基多型 (SNP) を解析した結果、これらの馬に対するエクリプスの血統的影響は、ヘロド(18.3%)、ゴドルフィンアラビアン(13.8%)に次ぐ13.3%に達した[85]。
また、同一系統対立遺伝子の遡及系統解析によると、エクリプスの遺伝子を多く持つ個体は競走能力が低い傾向がみられ、特に現役期間が短い傾向が顕著であった(他に出走率や獲得賞金も低い傾向がみられる)[85]。現役期間の短さについて、この研究はエクリプスの祖父が患っていた肺出血について言及している[85]。
顕彰
1886年にイギリスのサンダウン競馬場でエクリプスを記念するエクリプスステークスが創設された[48][86]。この競走は当時イギリス国内で最高額の賞金を誇り[87]、サンダウン競馬場で唯一の、そして同国でクラシック世代と古馬が初めて顔を合わせる平地中距離G1として開催が続いている[88]。また、フランスでも1891年にエクリプス賞が創設された[89]。こちらはG3に指定されており、幾度か開催場所を変えながら6ハロンから7+1⁄2ハロンの距離で実施されてきた歴史を持つ[89]。
さらにアメリカ競馬の年間表彰制度エクリプス賞もこの馬を記念したもので[71]、各部門の最優秀者及び最優秀馬の所有者に贈られるトロフィーにはエクリプスの像があしらわれている[90]。
他にもエクリプスにちなんで名付けられた事物の例として、王立獣医学校の大学図書館棟 (Learning Resource Centre) が「エクリプス館」と命名されているほか[66][91]、競馬を扱うイギリスのオンラインマガジンに「エクリプス・マガジン」と称しているものがある[91]。競馬とは直接関連がないものでも、三菱自動車の北米法人ダイアモンド・スター・モーターズが製造した自動車である「エクリプス」や[92][91]、エミール・カールセンが油彩画を描いた蒸気船「エクリプス号」は本馬に由来する[91]。
1989年には没後200年を記念し、ポール・メロンの後援のもとジェイムズ・オズボーンがエクリプスの銅像を制作した[93]。このうち最初に鋳造されたものはニューマーケット競馬場に[93]、2番目に鋳造されたものは王立獣医学校に設置されており[93][94]、マケット(ミニチュアの雛型)はイェール大学イギリス美術センターのポール・メロン・コレクションに収蔵されている[93][95]。
Eclipse first, the rest nowhere.
エクリプスがデビュー戦の第1ヒートを難なく勝った後、オケリーが第2ヒートの全馬の着順を賭けてもいいと宣言した際に発した語句で[96][注釈 33]、意味は「エクリプス1着、2着馬はなし」[97]。「エクリプス1着、残りは惨敗」[48]や「エクリプス1着、ほかの馬はどこにも来ない」[7]といった訳もある。
当時のヒートレースのルールでは、1着馬から240ヤード(約219.5メートル)以上離された場合には入着を認められないため、エクリプスが他馬を240ヤード以上離して勝つ[注釈 34]、と予想したものである[99]。結果はエクリプスが圧勝し、オケリーの予想が的中した[99]。これは後に「競争相手を圧倒する」といった意味の慣用句あるいはクリシェとなり[100][71]、『新英和大辞典』第5版では、「唯一人抜きん出て及ぶ者なし」の訳で掲載されている[101][102]。
また、この語句は「エクリプス1着、他はまだ見えない」という訳でも知られている[97]。この訳は孫引きによって日本の競馬界に広まり、さまざまな文献にも引用されているが、山野浩一は、これをヒートレースのルールを知らない訳者が、2着馬がいなくなることはあり得ないと考え、「nowhere」の意を2着馬が「見えないだけ」と解釈してしまった結果産まれた誤訳と指摘している[97]。
馬主のデニス・オケリーについて
エクリプス3人目の馬主であるデニス・オケリー(Dennis O'Kelly、1720,28年? - 1787年)は、18世紀後半にイギリスで名をはせた賭博師。もとはアイルランドの貧しい農家の生まれで、ロンドンに出て怪しげな商売をしていたという。一時はその饒舌と端麗な容姿が受けて社交界の寵児となっていた時期もあったが、ビリヤードなどの賭博で金を使い果たし破産、流刑になる。
しかし流刑予定地のアメリカで独立前の混乱が起こり、囚人船が出発できずロンドンに送り返された後、1760年10月にジョージ2世崩御に伴う特赦で釈放された。その後はフリート債務者監獄の中で知り合ったシャーロット・ヘイズと組んで行った賭博がことごとく成功し、ついには金の力で大佐の地位まで手に入れる。後に馬産家としても成功した。
彼がエクリプスから得た金は25000ポンドを超えたという。ダービーステークスもヤングエクリプスで優勝した。しかしその出自や第12代ダービー伯爵等の反対により、最期までジョッキークラブの会員にはなることはできなかった。
競走成績
当時の競馬成績書に記録されている競走成績をまとめると以下の通り。
エクリプスが挙げたキングズプレート11勝は、それまでの記録を1勝上回る最多記録だった[43][103]。
| 出走日 | 競馬場 | 競走名 | 距離 | 着順 | 斤量 | (対戦相手) | 出典 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1769年5月3日 | エプソム | ノーブルメン&ジェントルメンズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 8st7lb | (ガウアー、チャンス、トライアル、プルーム) | [104] |
| 5月29日 | アスコット | ノーブルメン&ジェントルメンズプレート | 2mi(ヒート) | 優勝 | 9st3lb | (クリームデバルバド) | [105] |
| 6月13日 | ウインチェスター | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | (スラウチ、チガー、ジューバ、カリバン、クランヴィル) | [106] |
| 6月15日 | ウインチェスター | シティプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 9st | 単走 | [106] |
| 6月28日 | ソールズベリー | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | 単走 | [107] |
| 6月29日 | ソールズベリー | シティプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 10st | (サルファー、フォレスター[注釈 35]) | [107] |
| 7月25日 | カンタベリー | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | 単走 | [108] |
| 7月27日 | ルイス | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | (キングストン) | [109] |
| 9月19日 | リッチフィールド | キングズプレート | 3mi(ヒート) | 優勝 | 8st7lb | (タルディ) | [110] |
| 1770年4月17日 | ニューマーケット | マッチレース | 4mi | 1着 | 8st7lb | (ビュセファラス) | [111][112] |
| 4月19日 | ニューマーケット | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | (ダイアナ、ペンショナー、チガー) | [113][114] |
| 6月5日 | ギルフォード | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | 単走 | [115][116] |
| 7月3日 | ノッティンガム | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | 単走 | [117][118] |
| 8月20日 | ヨーク | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | 単走 | [119][120] |
| 8月23日 | ヨーク | グレートサブスクリプションパース | 4mi | 1着 | 8st7lb | (トルトワーズ、ベラリオ) | [121][122] |
| 9月3日 | リンカーン | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | 単走 | [123][124] |
| 10月3日 | ニューマーケット | 150ギニーズプレート | 4mi | 1着 | 8st10lb | (コルシカン) | [125][126] |
| 10月4日 | ニューマーケット | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | 単走 | [127][128] |
- 走路はすべて芝馬場。
種牡馬成績
主な産駒
| 馬名 | 欧字名 | 生年 | 性 | 主な戦績など |
|---|---|---|---|---|
| ポテイトーズ | Potoooooooo | 1773年 | 牡 | 46戦30勝。 ネアルコ、ハイペリオンなどの祖先 |
| キングファーガス | King Fergus | 1775年 | 牡 | 1797年英チャンピオンサイアー。セントサイモンの祖先 |
| ジョーアンドリュース | Joe Andrews | 1778年 | 牡 | ジョーアンドリュース系の祖。現在は滅亡 |
| ヤングエクリプス | Young Eclipse | 1778年 | 牡 | ダービーステークス |
| マーキュリー | Mercury | 1778年 | 牡 | マーキュリー系の祖。現在は滅亡 |
| サルトラム | Saltram | 1780年 | 牡 | ダービーステークス |
| ダンガノン | Dungannon | 1780年 | 牡 | サージェントの全兄、25戦23勝 |
| サージェント | Serjeant | 1781年 | 牡 | ダービーステークス |
| アネット | Annette | 1784年 | 牝 | オークスステークス |
牝駒の主な産駒
エクリプスを母の父に持つ主な馬。タグ以外はすべて父がヘロド系である。
| 馬名 | 欧字名 | 生年 | 性 | 父 | 主な戦績など |
|---|---|---|---|---|---|
| フェノメノン | Phoenomenon | 1780年 | 牡 | ヘロド | セントレジャーステークス、ドンカスターカップ |
| スカイスクレーパー | Skyscraper | 1786年 | 牡 | ハイフライヤー | ダービーステークス |
| タグ | Tag | 1786年 | 牝 | トレンサム | オークスステークス |
| ヴァランテ | Volante | 1789年 | 牝 | ハイフライヤー | オークスステークス |
| ターター | Tartar | 1789年 | 牡 | フロリゼル | セントレジャーステークス |
| オベロン | Oberon | 1790年 | 牡 | ハイフライヤー | ドンカスターカップ |
| ジョンブル | John Bull | 1790年 | 牡 | フォーティチュード | ダービーステークス |
| スタンフォード | Stamford | 1794年 | 牡 | サーピーターティーズル | ドンカスターカップ2回 |
| アーチデューク | Archduke | 1796年 | 牡 | サーピーターティーズル | ダービーステークス |
| ベリナ | Bellina | 1796年 | 牝 | ロッキンガム | オークスステークス |
| パリス | Paris | 1803年 | 牡 | サーピーターティーズル | ダービーステークス |
| エフエメラ | Ephemera | 1797年 | 牝 | ウッドペッカー | オークスステークス |
血統
エクリプスの両親は父マースクと母スピレッタで、どちらもカンバーランド公の所有馬であった[11]。マースクは、競走馬時代にジョッキークラブプレートでの勝利を含む6戦3勝の成績を残した[129]。引退後は種牡馬としてカンバーランド公やワイルドマンらのもとで供用されたが、エクリプスの活躍によって人気を博すと[3]、第4代アビンドン伯爵ウィラビー・バーティーに1,000ギニーで購入され、100ギニーの種付料を取るようになった[130][131]。スピレッタはニューマーケット競馬場で1戦のみ出走して着外[56]に終わり、その後はカンバーランド公のもとで繁殖牝馬となった[132]。同馬はエクリプスのほか4頭の産駒を出しており[注釈 36]、その中でエクリプスの全妹であるプロサーパイン (Proserpine) の子孫は12号族の主流となる分枝を形成し、繁栄している[56]。
なお、父はマースクではなくシェイクスピアだという説もある[133][56]。リチャード・タタソールの記録帳には、デニス・オケリーの厩務員の証言として、スピレッタにはマースクに交配される前にシェイクスピアとも交配されたという記述がある[133][134]。しかし、セオドア・アンドレア・クックはこの説に否定的であり、「大方の専門家の意見が一致してからすでに久しく、エクリプスにいたる真の系統は、ダーレー・アラビアンを父とするフライングチルダーズの全兄弟馬バートレッツチルダーズからスクヮートを通して、マースクに至ったのだ」と述べ[135][注釈 37]、さらにカンバーランド公の牧場の事情をオケリーの厩務員が知っているとは信じがたく、マースクの売買価格や種付料が高額だったことは当事者たちがエクリプスの血統を疑っていなかったことを示している、としている[136]。もっとも、両馬いずれとも父を遡ればダーレーアラビアンに行き着くため、どちらが本当の父だったとしても父系に関して大きな変更はない[56]。
| Eclipseの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
| 父系 | ダーレーアラビアン系 |
[§ 2] | ||
|
父
Marske 1750 黒鹿毛 |
父の父
Squirt1732 栗毛 |
Bartlet's Childers | Darley Arabian | |
| Betty Leedes | ||||
| Snake Mare | Snake | |||
| Grey Wilkes | ||||
|
父の母
Hutton's Blacklegs Mare生年不明 |
Hutton's Blacklegs | Hutton's Bay Turk | ||
| Coneyskins Mare | ||||
| Bay Bolton Mare | Bay Bolton | |||
| Fox Cub Mare | ||||
|
母
Spilletta 1749 鹿毛 |
Regulus 1739 鹿毛 |
Goldolphin Arabian | 不明 | |
| 不明 | ||||
| Grey Robinson | Bald Galloway | |||
| Snake Mare | ||||
|
母の母
Mother Western1731 |
Easby Snake | Snake | ||
| Akaster Turk Mare | ||||
| Old Montagu Mare | Lord d'Arcy's Old Montagu | |||
| Hautboy Mare | ||||
| 母系(F-No.) | 12号族(FN:12) | [§ 3] | ||
| 5代内の近親交配 | Snake Mare: 3×4, Snake: 4×5×4, Hautboy: 5×5, Cream Cheeks: 5×5 | [§ 4] | ||
| 出典 | ||||
脚注
注釈
- ^ 当時はイングランドのランニングホース等と呼ばれていた[要出典]。
- ^ 当時は騎手と調教師、厩務員の区別は明瞭ではなく、騎手ジョン・オークリー、馬主ウィリアム・ワイルドマンらが調教を付けていた[要出典]。原田 (1993, p. 27) はサリヴァン (Sullivan) としている。
- ^ 当時のイギリスでは5月1日に一律年をとる。
- ^ 中でも各地で行われたキングズプレート(王室賞)は、国王から賞品が下賜される当時最も権威のある競走であった[3]。
- ^ 当時の日食をWeatherby (1827, p. 194) は great eclipse と記す。山野 (1993, p. 292) や石川 (1997, p. 14) は皆既日食とするが、この時に観測されたのは金環食であった[6]。
- ^ ジェームズ・ウェザビーによる『ジェネラルスタッドブック』(血統書)創刊が1791年、『レーシングカレンダー』(成績書)創刊が1773年。
- ^ Cook (1907, p. 68) は、キーツ・ゴアにあった厩舎は現役馬のためのものだったので、母馬がここにいたとは考えにくいとしている。
- ^ Cook (1907, p. 69) によれば、ミクルハムは後に馬主となるワイルドマンが厩舎を構えていた場所というだけである。
- ^ Cook (1907, p. 68) によれば、エクリプスとバークシャー・ダウンズとの関連は1770年に馬主のオケリーが所有する別の馬がここで行われた競走に勝ったことしかない。
- ^ Cook (1907, p. 69) は、近くのエセックス州プレイストーに「カンバーランド・ファーム」と名付けられた(カンバーランド公とは無関係な)地所があったことが由来であろうとする。
- ^ 18世紀中頃には競走馬が4歳以下で出走することはほとんどなく、エクリプスも5歳でのデビューとなった[3]。
- ^ ロングリグ (1976, p. 79) は試走の場所をバンステッドダウンズとする。
- ^ 老婆の発言は原田 (1993, p. 16) より引用。
- ^ Cook (1907, p. 78) は、オケリーの所有馬がエクリプスの試走(調教)の相手をしたのではないかと推測している。
- ^ 競走名はWalker (1770, p. 38) による。
- ^ Cook (1907, p. 78) は200ヤードとするが、ヴァンプルー & ケイ (2008, p. 106) に記載のヒートレースの説明に基づき240ヤードとした。
- ^ 競走名はWalker (1770, p. 49) による。
- ^ ただし以後も出走登録はワイルドマンの名義だった[3]。
- ^ 開催地、日付、競走名はWalker (1770, p. 58) による。
- ^ 競走名はWalker (1770, p. 70) による。なお、Cook (1907, p. 82) はシティ・ボウルとしている。
- ^ この中でカンタベリー競馬場のキングズプレートはエクリプスの単走であった[29]。
- ^ オケリーが権利を買い取った時期について、石川 (1997, p. 16) は「マッチレースを勝った時点」、Cook (1907, p. 82) は1769年中とする。
- ^ 日付はWalker (1771, p. 100) による。
- ^ Pick (1805, pp. 15–17)、Taunton (1887, pp. 112–114)、石川 (1997, p. 17)、Clee (2010, pp. 293–296) はその説を採っている。Bloodlines.net はそれに1770年のノッティンガム競馬場でのキングズプレートを加えて19戦19勝、山野 (1993, pp. 293, 295–296) はニューマーケット競馬場での100ギニーズプレート2勝を加えて20戦20勝としている。
- ^ 初代シャンドス公爵ジェームズ・ブリッジスが建てたカントリー・ハウス跡(建屋はシャンドス公没後に取り壊されていた)。敷地は現在キャノンズ・パークとなっている。
- ^ クレイグ (1986, p. 71) は逆に25ギニーであった種付料が、後50ギニーに引き上げられたとしている。
- ^ ただしCook (1907, pp. 154–155) は、サンプソン(1745年生まれ、体高15ハンド2インチ)が当時極めて大きな競走馬と考えられていたこと、生前のエクリプスが大柄だったという記録がないこと、サラブレッドの体高が大きくなっている傾向があることから、実際は15ハンド2インチだったのではないかと推測している。
- ^ Edmund Bond。1794年に第1期の王立獣医学校卒業生となり、ロンドンで最初の開業獣医師となった人物[66]。
- ^ 鞭自体はエクリプスよりも更に古く、チャールズ2世からジョッキークラブに下賜されたものという言い伝えがある[73]。
- ^ Thoroughbred Heritage、サラブレッドタイムズの記事[81]等による。他に80%や90%とする説もある。
- ^ セントサイモンにおけるエクリプス血量は約14%、ヘロドは19%強。
- ^ 三大始祖が成立したのはエクリプスやハイフライヤーの産駒が走っていた時代であり、1785年にダービーを制したエイムウェル(オルコックアラビアン系)にしても母の父にヘロドを持っていた。
- ^ ヴァンプルー & ケイ (2008, p. 53) は、この予想が史実であったかどうかは「非常に疑わしい」とする。
- ^ 決勝点から240ヤード手前の地点を The distance といい、先行馬から240ヤード引き離された馬は distanced と宣告された[98]。
- ^ フォレスターという馬名は Pick (1805, p. 16) や Whyte (1840, p. 517) による。
- ^ エクリプスは第2仔に当たる[56]。
- ^ 訳文は原田 (1995, pp. 359–360) より引用。
出典
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参考文献
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外部リンク
「エクリプス (競走馬)」の例文・使い方・用例・文例
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