エクリプス (競走馬)
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エクリプス | |
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エクリプスの肖像、ジョージ・スタッブス画
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欧字表記 | Eclipse[1][2] |
品種 | サラブレッド[2][注釈 1] |
性別 | 牡[2] |
毛色 | 栗毛[1][2] |
生誕 | 1764年4月1日 |
死没 | 1789年2月26日 |
父 | Marske[1][2] |
母 | Spilletta[1][2] |
母の父 | Regulus[1][2] |
生国 | イギリス[2] |
生産者 | カンバーランド公爵[1] |
馬主 | ウィリアム・ワイルドマン →デニス・オケリー |
調教師 | ジョン・オークリー[注釈 2] |
競走成績 | |
生涯成績 | 18戦18勝 |
獲得賞金 | 2149ギニー |
エクリプス(Eclipse、1764年 - 1789年)は、18世紀後半に活躍したイギリスの競走馬・種牡馬である。18戦18勝の戦績を持つ。サラブレッドの基礎を作ったと言われる。名言「Eclipse first, the rest nowhere.」(唯一人抜きん出て及ぶ者なし)で知られる。
概説
歴史的背景
エクリプスが生まれた18世紀中頃は、まだジョッキークラブも結成されておらず、ダービーステークス等今日知られている競走も行われておらず、王族などが開催する一部の競走を除けば、貴族や富豪が相互に賭け合い勝負をするという形で競馬が行われていた時代である。また競走形態も後世のものとは異なり、同じ馬で長距離レースを何度も戦って勝負を決するという形式のもの(ヒートレース)が盛んに行われた。この時代の競走馬といえば、主に東方(アラビア半島や北アフリカ、小アジアなど)から輸入あるいは略奪してきたアラブ種系の馬のことを指していた[3]。サラブレッドはまだ成立しておらず、競走馬といえば単にランニングホースと呼ばれていた。エクリプス自身も競走馬時代はサラブレッドと呼ばれたことはないはずである。この後エクリプスやヘロド、マッチェム、スナップなどが基礎となりサラブレッドという品種が徐々に成立していくこととなる。1791年の『ジェネラルスタッドブック』序巻の発刊をもってサラブレッドの成立とすることが多い。
競走馬として
このような時代に生まれたエクリプスは、極めて激しい気性を持ちながらも当時の競馬に適応した。18戦18勝(うちヒートレース7、マッチレース1、単走8)という成績を残し、かつ全ての競走が楽勝だった。エクリプスは18世紀の最強馬とされることが多い。少なくともこの時代最も重要な競走馬であり、かつ後世に最も知られているというのは確かである。
ただし当時既にドイツなどでも競馬が行われていたはずであり、そちらとの力関係は現在では知るすべはない。現在に繋がるイギリスの競馬はともかく、相次ぐ戦争などで衰退する大陸ヨーロッパの競馬は忘れられていった。イギリスにも同世代にゴールドファインダー(13戦不敗、エクリプスとは未対戦に終わる)という競走馬がいたが、こちらも現在ではあまり議論される対象には挙がっていない。また、エクリプス自身の記録についても不明瞭なものが多く、この18戦のほかにも記録に残っていないものがあるといわれている。残されている逸話も真偽不明なものが幾つかある。
種牡馬として
エクリプスは種牡馬としてポテイトーズやサージェントなどの父となり、この時代としては非常に多い344頭の産駒が競馬で勝利した。ダービーステークスは1780年の創設で、当時既にエクリプスは晩年にさしかかっていた中で3頭の優勝馬を送り出した。父の父や母の父としても優秀で、サラブレッドの成立にも貢献した。今日のサラブレッドの父系(サイアーライン)を遡っていくと約98%がポテイトーズとキングファーガスというエクリプスの2頭の産駒にたどり着くとされ、これらを総称してエクリプス系と呼ばれる。同時代の種牡馬であるマッチェム(2%)やヘロド(ごく少数)の影響力を大きく上回っている。
生涯
誕生

エクリプスは1764年4月1日の日食[注釈 4]の日に生まれた[6]。馬名はこの日食に由来し、『ジェネラルスタッドブック』第1巻には「エクリプスの名は、すべての競走相手を凌駕 (eclipse) したからではなく、日食 (eclipse) の日に生まれたことに因み名付けられた」と注釈がある[1]。生産者はヘロドも生産したイギリス王族の軍人カンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタス王子である[1][7]。
一方この時代、まだ血統書や成績書などは整備されていなかったため[注釈 5]、分かっていないことも多い。生誕地はウィンザー・グレート・パークにカンバーランド公が所有していたクランボーン・ロッジ(バークシャー州ウィンザー)の牧場であると考えられているが[4][8][9]、他にもカンバーランド公のもう一つの邸宅であったカンバーランド・ロッジ[10]や所有する厩舎があったバークシャー州イースト・イルスリー近くのキーツ・ゴア (Keats Gore)[4][11][注釈 6]、さらにサリー州ドーキング近くのミクルハム[12][10][注釈 7]、バークシャー・ダウンズ[10][4][注釈 8]、ミドルセックス州アイル・オブ・ドッグズ[10][注釈 9]といった異説がある。
デビューまで
1歳になった1765年、カンバーランド公が死亡したためエクリプスを含め彼の所有馬は全てセリ市に出された。羊の売買商ウィリアム・ワイルドマンは、人づてにエクリプスの話を聞きぜひ手に入れたいと思っていたが、彼が到着したとき既にエクリプスは70ギニーで落札されてしまっていた。ワイルドマンは諦めずにセリが公示時刻よりも早く始まっていたことに抗議し、再度行われたセリにて75ギニーに競り上げエクリプスを手に入れる事に成功した[13][7]。
ワイルドマンはこうしてエクリプスを手に入れたものの、非常に気性が荒く、事あるごとに暴れるエクリプスを持て余していた[14]。一時は去勢することも考えたが[15]、知り合いのデニス・オケリーの勧めもあり結局辛抱強く馴致を行った。名立ての荒馬乗りジョン・オークリーに乗り回される内に競馬に使えそうな見込みが立ち、1769年にデビューした。当時はヒートレース(同じ馬が2回勝つまで競走を繰り返す)が主流だったこともあり5歳6歳になってからのデビューが普通で、エクリプスもこの時5歳になったばかりだった。
エクリプスをデビューさせるにあたりエプソムで試走させてみると、エクリプスは予想外の力を見せた。真偽のほどは定かではないが、キノコ狩りにやって来て偶然この試走を目撃した近所の老婆が「あれが本当の競馬であったかどうかよくわからないが、右後一白の栗毛馬がものすごい形相をして疾走し、たちまち相手馬との差をどんどん広げていくのを見たのはたしかです。あの馬に追いつくには地の果てまで走り続けても……」と答えたという話が伝わっている[注釈 10]。デビュー戦の掛け率(オッズ)はこの試走により一挙に1対4にまで跳ね上がった。
競走馬時代
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![]() ジョン・ノット・サルトリウスの原画をエングレービングにしたもの。1830年頃、大英博物館蔵。 |
競走成績は公式には18戦18勝とされた。7回から8回のヒートレースに出走したが、各ヒートでも1度も負けず、全て2戦で決着を付けている。走行フォームは頭を地面すれすれに下げて走る独特なものだったと伝えられている。
エクリプスは1769年5月3日にエプソム競馬場で行われたノーブルメン&ジェントルメンズプレート(4マイルヒート)でデビューした。既に他馬を凌駕する力を持っており、この競走で「Eclipse first, the rest nowhere.」という言葉が生まれた(後述)。
2戦目はアスコット競馬場でのノーブルメン&ジェントルメンズプレートで、ここも圧勝。さらに次走、6月13日にウインチェスター競馬場で行われたキングズプレートは、7歳馬を相手に大差で圧勝した。オケリーは初戦で儲けた資金650ギニーでエクリプスの権利の半分を買い取った。2日後の競走はエクリプスのあまりの強さを目の当たりにした馬主が皆回避したために単走になった。このシーズンは他にソールズベリー競馬場、カンタベリー競馬場、ルイス競馬場、リッチフィールド競馬場のキングズプレート等記録に残っている競走だけで9戦を消化し全て圧勝で終えた。
エクリプスの強さが明らかになるにつれ賭けレースを挑もうという人は少なくなり、馬主が貴族でもジョッキークラブに所属しているわけでもないエクリプスにとって出走する競走がないという問題が出てきた。この後も出走可能なキングズプレートのような競走に出走し続けるが、登録する端から皆が回避してしまうために、生涯で少なくとも8度の単走を記録した。
前述の通り、エクリプスにマッチレースを挑もうという馬はほとんどいなかったが、1770年の初め1回のマッチレースが組まれた。相手は1768年のグレートサブスクリプションパースに勝つなど当時北部を中心になかなかの実績を上げていたビュセファラスという馬で、馬主ペレグリン・ウエントワースは6対4という強気な掛け率で挑んできていたが、このマッチレースでもエクリプスは楽勝した。ウエントワースは愛馬が惨敗したことにショックを受け半年間自宅に引きこもってしまったという[18]。さらに次の競走では第2ヒートで再び対戦相手を「見えなくなるほど(out of sight)」突き放して圧勝した。
4月の終わりにはオケリーが1100ギニーでエクリプスの権利を全て買い取った。その後ノッティンガム競馬場のキングズプレートやグレートサブスクリプションパース(ヨーク競馬場)等に勝った。10月にはこの時代を代表するもう一頭の強豪、ゴールドファインダー(13戦不敗)とのマッチレースが行われる予定であったが、ゴールドファインダーが故障、そのまま引退したため実現せず、最後は挑んでくる者もいなくなったためこのシーズンを最後に引退することとなった。
生涯成績は当時の競馬成績書を数えると18戦18勝となる[注釈 11]。異説もあるがいずれにせよ無敗であったことは確実であり、フライングチルダーズ以来の名馬というのが衆目の一致するところだった[19][7][20]。
種牡馬時代
引退後はオケリーのもとで種牡馬として供用された。オケリーはエクリプスを利用して馬産家として成功した。なお、最初はクレイヒルに繋養されていたが、24歳の時に2頭立ての幌付き馬車でミドルセックス州エッジウェアのカノンズ[注釈 12]に移された。これ以前に競走馬が車で移動した例は無く、馬運車に初めて乗った馬ではないかとも言われている[21][要ページ番号]。
種付料は初年度が50ギニー、それ以降は20から30ギニーの間で推移した[注釈 13]。種牡馬成績はダービーステークス優勝馬3頭やポテイトーズ等344頭の勝ち馬(競走で1勝以上を挙げた馬)を輩出し競走馬時代に勝るとも劣らない活躍をしたが、結果的に一度も首位種牡馬(リーディングサイアー)になることはなかった。これはヘロド(Herod、首位種牡馬8回、勝ち馬497頭)とその息子ハイフライヤー(Highflyer、首位種牡馬13回、勝ち馬469頭)と種牡馬としての活躍時期が競合していたためである。そのため、1778年から1788年の間歴代最多となる11年連続種牡馬ランキング2位という記録を作っている[9]。しかし母の父としては、ヘロド〜ハイフライヤー系の父との間に多くの名馬が出た。アーチデューク (Archduke) 、ジョンブル (John Bull) といったエプソムダービー優勝馬もいる。
なお、エクリプス(とハイフライヤー)は産駒があまりに活躍するために競走では特別な負担を課せられることもあった。例えば第1回ジュライステークスの施行条件には、エクリプスとハイフライヤー産駒は負担重量を余計に3ポンド背負わなければならないといった条件が含まれていた[24]。
死
1789年2月26日夜7時、疝痛(せんつう)により死亡。25歳であった[注釈 14]。カノンズで行われた葬儀には多くの人が集まり、ゴドルフィンアラビアンのときと同様に弔いのためにビールと菓子が供された[26][27]。
死亡後

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死亡の際、王立獣医学校設立のためにロンドンに滞在していたフランス人獣医師シャルル・ヴィアル・ド・サンベルが検死(剖検)を行い、結果を“An Essay on the Proportions of Eclipse”としてまとめている[29][30]。彼は馬体の各部位の寸法を計測してその比率を求めたほか[31]、体高(地面から鬐甲までの高さ)を66インチ(16ハンド2インチ≒約167.6センチメートル)と推定した[32][9]。また心臓が14ポンド(約6.35キログラム)もあったと報告した[33][30]。
エクリプスの骨格はヴィアル・ド・サンベルの解剖の助手を務めたエドムンド・ボンド[注釈 15]にオケリー家から贈られたと思われ、ボンドの死後はブレイシー・クラークの所有となったが、当時はまだ組み立てられていなかった[29]。クラークは骨をジョン・ギャムジーがエディンバラに設立した新獣医学校 (New Veterinary College) に100ギニーで売却し、同校で初めて骨格標本として展示されるようになった[29][30]。同校が廃校になるとギャムジーは1871年に骨格を王立獣医師協会へ寄贈し、1920年からのロンドン自然史博物館への貸し出しを経て、1983年に国立競馬博物館が開館すると同館に展示されるようになった[29][30]。現在は王立獣医学校のエクリプス館で展示されている[34][35]。ただしこの他に「これはエクリプスの骨格である」と主張する物が4体もあるという。また蹄も本物の1つで金の台座にあしらわれた物がジョッキークラブに所有されているが、他に本物と称するものが少なくとも5個ある[28]。検死の後に、皮は財布の皮にされ、たてがみと尾の毛は鞭にされた[36][要ページ番号]。
骨格や血統の研究は現在も続いており、2005年にはエクリプスのデオキシリボ核酸 (DNA) が調査される予定であると英国放送協会 (BBC) やサラブレッドタイムズによって報道された[37][38]。記事には、イギリスの王立獣医学校とケンブリッジ大学の科学者が歯等に残された DNA を調査すると記載された。2012年に調査結果が報告され、王立獣医学校が所蔵するエクリプスの骨格のミトコンドリアDNA (mDNA) とその牝系子孫にあたる現代の馬の mDNA を比較したところ、この骨格が(複数の他の馬の骨が組み合わせられているのではないかという疑いに反して)ほぼ全てエクリプスのものであることが確かめられたという[35]。また、2006年には骨格と運動モデルが分析され、現在の馬とほぼ同じ特徴を持っていたと結論付けられた[39]。この他の特徴も現在のサラブレッドにかなり似ている。もっとも、エクリプスが現在のサラブレッドに似ているというより、現在のサラブレッドがエクリプスに似ているというべきであるが。
後世への影響
後世への影響は非常に強い。サラブレッドの血統を父の父の父…という風に父方に辿ると殆どがエクリプスに辿り着くと言われており、その勢力は実に95%に達するとまで言われる[注釈 16]。また、母系を合わせてのサラブレッドへの血統的影響はヘロド程ではないが非常に強く、血量にして優に10%を超えている[注釈 17]。
しかしながら種牡馬となった当初はヘロド〜ハイフライヤー系の方が優勢で、実際に1780年から1839年までの60年間の首位種牡馬回数は、エクリプス系12回に対し、ヘロド系が43回とヘロド系の方が多かった(マッチェム系は5回)。オケリーは詩人を使ってハイフライヤーの馬主であるリチャード・タタソールに向かって「ハイフライヤーの産駒でヘロドの血の優秀性を証明して見せよ」と、どちらの血が優れるか投げかけてはいるものの、三大始祖[注釈 18]いずれの父系が優れるかの議論もヘロド系の方が優勢で、エクリプスはハイフライヤーに牝馬を提供するだけという極端な考えを持っていた馬主もいたようである[36][要ページ番号][40]。
だが、ヘロド系が優勢だったのは1830年頃までで、19世紀中盤以降ハイフライヤー系が衰退・滅亡するヘロド系に対し、ストックウェル、ニューミンスター、セントサイモン等大種牡馬を連発したエクリプス系が勢力を伸ばした。これ以後現在に至るまでエクリプス系優位が続いている。現在エクリプス系は主にポテイトーズとキングファーガスの2頭にさかのぼることができる(子孫についての詳細はエクリプス系を参照のこと)。
遺伝子
2018年のシドニー大学を中心とした研究グループの報告によると、2000年から2011年にオーストラリアで走ったサラブレッド13万5572頭の全血統表、更に抽出した128頭の常染色体塩基配列の一塩基多型 (SNP) を解析した結果、これらの馬に対するエクリプスの血統的影響は、ヘロド(18.3%)、ゴドルフィンアラビアン(13.8%)に次ぐ13.3%に達した[41]。
また、同一系統対立遺伝子の遡及系統解析によると、エクリプスの遺伝子を多く持つ個体は競走能力が低い傾向がみられ、特に現役期間が短い傾向が顕著であった(他に出走率や獲得賞金も低い傾向がみられる)[41]。現役期間の短さについて、この研究はエクリプスの祖父が患っていた肺出血について言及している[41]。
顕彰

1886年にイギリスのサンダウン競馬場でエクリプスを記念するエクリプスステークスが創設された。この競走は当時イギリス国内で最高額の賞金を誇り、現在もG1に指定されている。またフランスでも1891年にエクリプス賞が創設された[42]。こちらはシャンティイ競馬場で行われるG3競走である。
さらにアメリカ競馬の年間表彰制度エクリプス賞もこの馬を記念したもので[34]、各部門の最優秀者及び最優秀馬の所有者に贈られるトロフィーにはエクリプスの像があしらわれている。
1989年には没後200年を記念し、ポール・メロンが国立競馬博物館にエクリプスの銅像を寄贈した。この像はジェイムズ・オズボーンが制作したもので、ニューマーケット競馬場に設置されている。
Eclipse first, the rest nowhere.

エクリプスがデビュー戦の第1ヒートを難なく勝った後、オケリーが第2ヒートの全馬の着順を賭けてもいいと宣言した際に発した語句で[43][注釈 19]、意味は「エクリプス1着、2着馬はなし」[44]。「エクリプス1着、残りは惨敗」[45]や「エクリプス1着、ほかの馬はどこにも来ない」[6]といった訳もある。
当時のヒート戦のルールでは、1着馬から240ヤード(約219.5メートル)以上離された場合には入着を認められないため、エクリプスが他馬を240ヤード以上離して勝つ[注釈 20]、と予想したものである[47]。結果はエクリプスが圧勝し、オケリーの予想が的中した[47]。この語句は後に「他を圧倒する」という意味で用いられるようになり[34]、『新英和大辞典』第5版では、「唯一人抜きん出て及ぶ者なし」の訳で掲載されている[48][49]。
また、この語句は「エクリプス1着、他はまだ見えない」という訳でも知られている[44]。この訳は孫引きによって日本の競馬界に広まり、さまざまな文献にも引用されているが、山野浩一は、これをヒート戦のルールを知らない訳者が、2着馬がいなくなることはあり得ないと考え、「nowhere」の意を2着馬が「見えないだけ」と解釈してしまった結果産まれた誤訳と指摘している[44]。
馬主のデニス・オケリーについて

エクリプス3人目の馬主であるデニス・オケリー(Dennis O'Kelly、1720,28年? - 1787年)は、18世紀後半にイギリスで名をはせた賭博師。もとはアイルランドの貧しい農家の生まれで、ロンドンに出て怪しげな商売をしていたという。一時はその饒舌と端麗な容姿が受けて社交界の寵児となっていた時期もあったが、ビリヤードなどの賭博で金を使い果たし破産、流刑になる。
しかし流刑予定地のアメリカで独立前の混乱が起こり、囚人船が出発できずロンドンに送り返された後、1760年10月にジョージ2世崩御に伴う特赦で釈放された。その後はフリート債務者監獄の中で知り合ったシャーロット・ヘイズと組んで行った賭博がことごとく成功し、ついには金の力で大佐の地位まで手に入れる。後に馬産家としても成功した。
彼がエクリプスから得た金は25000ポンドを超えたという。ダービーステークスもヤングエクリプスで優勝した。しかしその出自や第12代ダービー伯爵等の反対により、最期までジョッキークラブの会員にはなることはできなかった。
競走成績
当時の競馬成績書に記録されている競走成績をまとめると以下の通り。
エクリプスが挙げたキングズプレート11勝は、それまでの記録を1勝上回る最多記録だった[19][50]。
出走日 | 競馬場 | 競走名 | 距離 | 着順 | 斤量 | (対戦相手) | 出典 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1769年5月3日 | エプソム | ノーブルメン&ジェントルメンズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 8st7lb | (ガウアー、チャンス、トライアル、プルーム) | [51] |
5月29日 | アスコット | ノーブルメン&ジェントルメンズプレート | 2mi(ヒート) | 優勝 | 9st3lb | (クリームデバルバド) | [52] |
6月13日 | ウインチェスター | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | (スラウチ、チガー、ジューバ、カリバン、クランヴィル) | [53] |
6月15日 | ウインチェスター | シティプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 9st | 単走 | [53] |
6月28日 | ソールズベリー | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | 単走 | [54] |
6月29日 | ソールズベリー | シティプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 10st | (サルファー、フォレスター[注釈 21]) | [54] |
7月25日 | カンタベリー | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | 単走 | [55] |
7月27日 | ルイス | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | (キングストン) | [56] |
9月19日 | リッチフィールド | キングズプレート | 3mi(ヒート) | 優勝 | 8st7lb | (タルディ) | [57] |
1770年4月17日 | ニューマーケット | マッチレース | 4mi | 1着 | 8st7lb | (ビュセファラス) | [58][59] |
4月19日 | ニューマーケット | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | (ダイアナ、ペンショナー、チガー) | [60][61] |
6月5日 | ギルドフォード | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | 単走 | [62][63] |
7月3日 | ノッティンガム | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | 単走 | [64][65] |
8月20日 | ヨーク | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | 単走 | [66][67] |
8月23日 | ヨーク | グレートサブスクリプションパース | 4mi | 1着 | 8st7lb | (トルトワーズ、ベラリオ) | [68][69] |
9月3日 | リンカーン | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | 単走 | [70][71] |
10月3日 | ニューマーケット | 150ギニーズプレート | 4mi | 1着 | 8st10lb | (コルシカン) | [72][73] |
10月4日 | ニューマーケット | キングズプレート | 4mi(ヒート) | 優勝 | 12st | 単走 | [74][75] |
- 走路はすべて芝馬場。
種牡馬成績
主な産駒
- ポテイトーズ (Potoooooooo、1773年) 46戦30勝。 ネアルコ、ハイペリオンなどの祖先
- キングファーガス (King Fergus、1775年) 1797年英チャンピオンサイアー。セントサイモンの祖先
- ヤングエクリプス (Young Eclipse、1778年) ダービーステークス
- サルトラム (Saltram、1780年) ダービーステークス
- サージェント (Serjeant、1781年) ダービーステークス
- ダンガノン(Dungannon、1780年) サージェントの全兄、25戦23勝
- アネット (Annette、1784年) オークスステークス
- ジョーアンドリュース (Joe Andrews、1778年) ジョーアンドリュース系の祖。現在は滅亡
- マーキュリー (Mercury、1778年) マーキュリー系の祖。現在は滅亡
牝駒の主な産駒
エクリプスを母の父に持つ主な馬。タグ以外はすべて父がヘロド系である。
- フェノメノン(Phoenomenon、1780年) セントレジャーステークス、ドンカスターカップ 父: Herod
- スカイスクレーパー(Skyscraper、1786年) ダービーステークス 父: Highflyer
- ヴァランテ(Volante、1789年) オークスステークス 父: Highflyer
- オベロン(Oberon、1790年) ドンカスターカップ 父: Highflyer
- スタンフォード(Stamford、1794年) ドンカスターカップ2回 父: Sir Peter Teazle
- アーチデューク(Archduke、1796年) ダービーステークス 父: Sir Peter Teazle
- パリ(Paris、1803年) ダービーステークス 父: Sir Peter Teazle
- ターター(Tartar、1789年) セントレジャーステークス 父: Florizel
- ジョンブル(John Bull、1790年) ダービーステークス 父: Fortitude
- ベリナ(Bellina、1796年) オークスステークス 父: Rockingham
- エフエメラ(Ephemera、1797年) オークスステークス 父: Woodpecker
- タグ(Tag、1786年) オークスステークス 父: Trentham
血統

エクリプスの両親は父マースクと母スピレッタで、どちらもカンバーランド公の所有馬であった[10]。マースクは、競走馬時代にジョッキークラブプレートでの勝利を含む6戦3勝の成績を残した[76]。引退後は種牡馬としてカンバーランド公やワイルドマンらのもとで供用されたが、エクリプスの活躍によって人気を博すと、第4代アビンドン伯爵ウィラビー・バーティーに1,000ギニーで購入され、100ギニーで種付けされるようになった[77][78]。スピレッタは5歳時にニューマーケットで1戦のみ出走して着外[79]に終わり、その後はカンバーランド公のもとで繁殖牝馬となった[80]。同馬はエクリプスのほか4頭の産駒を出しており[注釈 22]、その中でエクリプスの全妹であるプロサーパイン (Proserpine) の子孫は12号族の主流となる分枝を形成し、繁栄している[79]。
なお、父はマースクではなくシェイクスピアだという説もある[79]。リチャード・タタソールの記録帳には、デニス・オケリーの厩務員の証言として、スピレッタにはマースクに交配される前にシェイクスピアとも交配されたという記述がある[81]。しかし、『A History of the English Turf』の著者であるセオドア・アンドレア・クックはこの説に否定的であり、「大方の専門家の意見が一致してからすでに久しく、エクリプスにいたる真の系統は、ダーレー・アラビアンを父とするフライングチルダーズの全兄弟馬バートレッツチルダーズからスクヮートを通して、マースクに至ったのだ」と述べている[82]。もっとも、両馬いずれとも父を遡ればダーレーアラビアンに行き着くため、どちらが本当の父だったとしても父系に関して大きな変更はない[79]。
Eclipseの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | ダーレーアラビアン系 |
[§ 2] | ||
父
Marske 1750 黒鹿毛 |
父の父
Squirt1732 栗毛 |
Bartlet's Childers | Darley Arabian | |
Betty Leedes | ||||
Snake Mare | Snake | |||
Grey Wilkes | ||||
父の母
Hutton's Blacklegs Mare生年不明 |
Hutton's Blacklegs | Hutton's Bay Turk | ||
Coneyskins Mare | ||||
Bay Bolton Mare | Bay Bolton | |||
Fox Cub Mare | ||||
母
Spilletta 1749 鹿毛 |
Regulus 1739 鹿毛 |
Goldolphin Arabian | 不明 | |
不明 | ||||
Grey Robinson | Bald Galloway | |||
Snake Mare | ||||
母の母
Mother Western1731 |
Easby Snake | Snake | ||
Akaster Turk Mare | ||||
Old Montagu Mare | Lord d'Arcy's Old Montagu | |||
Hautboy Mare | ||||
母系(F-No.) | 12号族(FN:12) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Snake Mare: 3×4, Snake: 4×5×4, Hautboy: 5×5, Cream Cheeks: 5×5 | [§ 4] | ||
出典 |
脚注
注釈
- ^ 当時はイングランドのランニングホース等と呼ばれていた。
- ^ 当時は騎手と調教師、厩務員の区別は明瞭ではなく、騎手ジョン・オークリー、馬主ウィリアム・ワイルドマンらが調教を付けていた。原田 (1993, p. 27) はサリヴァン (Sullivan) としている。
- ^ 当時のイギリスでは5月1日に一律年をとる。
- ^ 当時の日食をWeatherby (1827, p. 194) は great eclipse と記す。山野 (1993, p. 292) や石川 (1997, p. 14) は皆既日食とするが、この時に観測されたのは金環食であった[5]。
- ^ ジェームズ・ウェザビーによる『ジェネラルスタッドブック』(血統書)創刊が1791年、『レーシングカレンダー』(成績書)創刊が1773年。
- ^ Cook (1907, p. 68) は、キーツ・ゴアにあった厩舎は現役馬のためのものだったので、母馬がここにいたとは考えにくいとしている。
- ^ Cook (1907, p. 69) によれば、ミクルハムは後に馬主となるワイルドマンが厩舎を構えていた場所というだけである。
- ^ Cook (1907, p. 68) によれば、エクリプスとバークシャー・ダウンズとの関連は1770年に馬主のオケリーが所有する別の馬がここで行われた競走に勝ったことしかない。
- ^ Cook (1907, p. 69) は、近くのエセックス州プレイストーに「カンバーランド・ファーム」と名付けられた(カンバーランド公とは無関係な)地所があったことが由来であろうとする。
- ^ 老婆の発言は原田 (1993, p. 16) より引用。なお、この話はオケリーが賭け相手を集めるため意図的に流したとの説もある[16][17]。
- ^ Pick (1805, pp. 15–17)、Taunton (1887, pp. 112–114)、石川 (1997, p. 17)、Clee (2010, pp. 293–296) はその説を採っている。Bloodlines.net はそれに1770年のノッティンガムでのキングズプレートを加えて19戦19勝、山野 (1993, pp. 293, 295–296) はニューマーケットでの100ギニーズプレート2勝を加えて20戦20勝としている。
- ^ 初代シャンドス公爵ジェームズ・ブリッジスが建てたカントリー・ハウス跡(建屋はシャンドス公没後に取り壊されていた)。敷地は現在キャノンズ・パークとなっている。
- ^ Bloodlines.net、原田 (1993)[要ページ番号]等による。クレイグ (1986)[要ページ番号]等は逆に初年度が25ギニー、後50ギニーとしている。
- ^ 死亡日については27日や28日と記述する資料もある。ここでは Thoroughbred Heritage を参考に26日としたが、原田 (1993, p. 23)、日本中央競馬会 (1978, pp. 16–17)、石川 (1997, p. 17) は27日、Pick (1805, p. 17)、Taunton (1887, p. 111)、山野 (1993, p. 288)、ロバート・チェンバース[25]は28日としている。
- ^ Edmund Bond。1794年に第1期の王立獣医学校卒業生となり、ロンドンで最初の開業獣医師となった人物[29]。
- ^ Thoroughbred Heritage、サラブレッドタイムズの記事[38]等による。他に80%や90%とする説もある。
- ^ セントサイモンにおけるEclipse血量は約14%、Herodは19%強。
- ^ 三大始祖が成立したのはエクリプスやハイフライヤーの産駒が走っていた時代であり、1785年にダービーを制したエイムウェル(オルコックアラビアン系)にしても母の父にヘロドを持っていた。
- ^ ヴァンプルー & ケイ (2008, p. 53) は、この予想が史実であったかどうかは「非常に疑わしい」とする。
- ^ 決勝点から240ヤード手前の地点を The distance といい、先行馬から240ヤード引き離された馬は distanced と宣告された[46]。
- ^ フォレスターという馬名は Pick (1805, p. 16) や Whyte (1840, p. 517) による。
- ^ エクリプスは第2仔に当たる[79]。
出典
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関連項目
- 三菱・エクリプス - ダイアモンド・スター・モーターズ(三菱自動車の北米法人)の自動車。本馬から命名された[† 1]。
- ^ “Facts & Figures 2006” (pdf). 三菱自動車. p. 29. 2012年3月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年9月19日閲覧。
外部リンク
「エクリプス (競走馬)」の例文・使い方・用例・文例
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