ウインド・リバーのアラパホ族入植地
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「ウインド・リバー・インディアン居留地」の記事における「ウインド・リバーのアラパホ族入植地」の解説
1878年~1879年の冬、アメリカ合衆国軍は北部アラパホ族をインディペンデンス・ロック近くのスウィートウォーター・バレーに護送し、その後ショショーニ族のワシャキー砦に一時的に留置し配給をした。アラパホ族を、歴史的な敵対関係のあった部族の近くに配置するというこの決定は、ショショーニ族に重要な歴史的および政治的結果をもたらした。 1851年のララミー砦条約に基づくコロラド州東部とワイオミング州南東部の大部分を含む旧アラパホとシャイアン族の居留地は、1859年のコロラド州のゴールドラッシュの後、白人に支配されていた。 その後、アラパホ族は1868年のララミー砦条約に署名した、その条約は、グレート・スー族の居留地に居住することを請求するものであり、ミズーリ川の西にある現在のサウスダコタ州の西半分を含み、獲物が残っている限りワイオミング州のプラット川の北を狩猟する権利も含んでいた。 実際には、アラパホ族はスー族が支配する地域に恒久的に居住することを望まなかった。彼らはレッド・クラウドのような強力なスー族の指導者たちに軽視されており、ラコタ部族に文化的に包囲されないようにしたかった。代わりに、アラパホ族は彼ら自身の居留地を望んでいた。1868~1869年、アラパホ族は、モンタナ州のミルク川の管理局で、言語的に関連するグロヴァント族とともに居住する場所をざっと探したが、天然痘が流行したためこの地を去った。さらに、アラパホ族の司祭でありリーダーのウィーゼル・ベアは、アラパホ族がグレートプレーンズではなく、ロッキー山脈に近い地域に恒久的な居住地を見つけるという構想を持っていた。アラパホ族の生活様式には、伝統的に山岳地域での狩猟の利用が重要であった、対象地域は特にエステス・パーク周辺のコロラド・ロッキー、そのほかスノーイー山脈、ビッグホーン、ブラック・ヒルズ、ララミー山脈も含まれていた。 米国陸軍の支持を求めて、アラパホ族の指導者シャープ・ノーズと彼の仲間たちはクルック将軍と同盟を結んだ、彼らは以前の同盟族であったシャイアン族に対する斥候と陸軍をみなしていた、1876年11月、ショショーニ、シャイアン、スー、ポーニー族の偵察兵とともに、米国軍側についてダル・ナイフの戦いに参加した。米国陸軍の将校は、ワイオミング州東部のアラパホ族居留地のアイデアを支持した、この時クルック将軍はタン川の管理地を約束したのかもしれない。しかし、米国の政策はその実現を妨げた、なぜなら、1868年以降、米国は実質的に部族との居留地条約の交渉をやめ、代わりにそのような協定には大統領命令を使用するようになったからである。 1878年、米国陸軍は冬の始まりに空腹で貧しい状態の約1,000人のアラパホ族を目の当たりにした、彼らはレッド・クラウド管理地の近くに住むことを嫌っていた、その土地はランドール砦の同意を得た管理地で、かつ南部アラパホ族のインディアン準州でもあった。 そのため、陸軍士官らは配給を分配するため、最も近い代替管理地としてワシャキー砦を探しだした。ショショーニ族は、1868年のブリッジャー砦条約評議会に基づいて、他の部族に居留地を認めてもらい、決定するための権利を有していたにもかかわらずである。 米国政府が部族を再配置するためにそれ以上行動を起こさなかったため、ワシャキー砦でのアラパホ族の一時的な配置は恒久的になった。アラパホ族は、クルック将軍が亡くなる1890年まで、自分たちの居留地を希望し続けた。1800年代後半の土地譲渡を含む取引では、政府は、ホット・スプリング郡のサーモポリスの売却などの譲歩の議論にアラパホ族を含めることにより、あたかも彼らが居留地とその資源の当事者であるかのように繰り返し行動した。これは、ショショーニ族の抗議(後に法廷に持ち込まれた)にもかかわらず、アラパホ族は居留地に対する法的要求を持っていなかったということであった。歴史学者のロレッタ・ファウラーによると、当時のアラパホ族の指導者たちは、ウインド・リバー・バレーの土地を確保するための実質的な法的地位がないことを知っていた。彼らは、土地の所有権と土地に対する主張を固めるために、部分的に土地の譲渡と保留地の割り当てに参画した。 1938年の米国政府とショショーニ族の合衆国最高裁判所判決によって初めて、政府が誤ってショショーニ族の土地と資源をアラパホ族に与えたと認めた。その後の土地取引により、アラパホ族の主張は公式なものとなった、すなわち、ショショーニ族インディアン居留地の土地と資源の半分がアラパホ族の所有となった、そして正式にウインド・リバー・インディアン居留地と改名された。 このアラパホ族の居留地成立までの複雑な歴史は、今日でも居留地の部族間関係と政治に影響を与え続けている。時間が経つにつれて、2つの部族のメンバー間で結婚が進み、歴史的に敵であった部族のメンバー間のつながりが構築され、政治協力が促進された。しかし、各部族の独立した主権を維持し、行使する努力は、居留地の大きな原動力となっている。
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