ウィリアム・マーティンと翻訳
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「万国公法」の記事における「ウィリアム・マーティンと翻訳」の解説
詳細は「ウィリアム・アレキサンダー・パーソンズ・マーティン」を参照 翻訳に着手したのは、アメリカ人宣教師ウィリアム・マーティン(W.A.P.Martin、中国名:丁韙良)であった。マーティンは1850年に来華して以来中国に留まり、天津条約の起草や北京同文館や京師大学堂での西欧学問教授、キリスト教伝道など多方面にわたり活動した人物である。特に教育及び翻訳によって近代中国に多大な影響を与えたことで知られ、『万国公法』の訳出はその代表的な事績といえる。 マーティンが漢語訳『万国公法』に着手したのは、在清アメリカ公使ジョン.E.ウォード(John Elliott Ward、中国名:華若翰)やアンソン・バーリンゲーム(Anson Burlingame、中国名:蒲安臣)、ロバート・ハートの強い薦めがあったためである。マーティン自身は長年中国に留まっていたため、漢語の読み書きにも不自由はなかった。翻訳は1862年上海滞在期に着手された。翌年、ある程度訳出できた時点で、天津に赴いて清朝の有力官僚の一人崇厚に提出し、その後総理衙門の公認を得て出版する運びとなった。刊行年については、研究者によって違いが見られ、1864年11月とする説(熊1994、佐藤1996、田2001)と翌年1月とする説(坂野1973)がある。 『万国公法』の翻訳は、幾人かの中国人の協力があってはじめて可能であった。まず崇厚に提出した未完稿には何師孟・李大文・張煒・曹景栄ら4人が参加して訳文を練り上げたが、それは「文義が非常に不明瞭である」と評される代物でそのまま刊行するには難があった。総理衙門の公認を得てからは総理衙門章京の地位にあった陳欽・李常華・方濬師・毛鴻図らが協力して校訂に臨み半年がかりで翻訳を完成させている。元々中国と西欧とでは法に対する観念が全く異なる上に、国際関係についての考え方も大きく違っているため、その作業には大きな困難を伴った。 困難にぶつかりながらもマーティンが訳業を放棄しなかったのは、単なる名誉欲だけではない、彼なりの強い信念があったためである。すなわち宣教師であった彼にとって、『万国公法』の訳出は広い意味でキリスト教伝道活動の一部であった。マーティンは国際法について「諸国間に行われ、一国が私することができない」(『万国公法』凡例)と述べ、欧米各国間に存在するこの公的なルールこそキリスト教文明が生み出した最良の成果の一つと捉えていた。その国際法を(『万国公法』の訳出を介して)中国に普及することで、西欧を夷狄視する中華思想的思いこみを徐々に是正していこうと考えたのである。そしてそのことは後々キリスト教の伝道にプラスになるとの展望をもっていた。このような宗教的使命感こそが翻訳動機の核であったといえる(張嘉寧1991、佐藤1996)。 マーティンは『万国公法』刊行後、1865年に設立された同文館という外交における通訳者養成を目的とする公立語学校の英語・国際法・政治学の教師の職に就き、後日校長に昇進している。彼はこの同文館の英語表記を“International Law and Language School”とすることが多かったが、このことから同文館を単なる通訳養成機関とは見ておらず、国際法普及の拠点と見なしていたことがわかる(佐藤1996)。実際、この同文館では『万国公法』に続き『星軺指掌』・『公法便覧』・『公法会通』といった国際法の翻訳が行われ刊行されていった。これらはアジアの諸地域に国際法の何たるかを伝え、近代国家の礎を築く契機のひとつとなった。
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