ウィリアム・マクギリヴレイの経営
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「北西会社」の記事における「ウィリアム・マクギリヴレイの経営」の解説
サイモン・マクタヴィッシュは一族を会社に登用したが、マクタヴィッシュにとっては縁故より能力のほうが重要であった。彼の義理の兄弟シャルル・シャボワーユ(Charles Chaboillez)はレッドリバー下流の交易拠点を監督した。マクタヴィッシュはいとこ数人を雇い、さらに甥のウィリアム・マクギリヴレイ(William McGillivray)とダンカン・マクギリヴレイ(Duncan McGillivray)に仕事を覚えさせた。ウィリアム・マクギリヴレイはビジネスで慧眼を発揮し、1788年にピーター・ポンドが引退するとその持分を取得した。ウィリアム・マクギリヴレイはその直後、グランド・ポーテージでの毎年の例会の席で叔父であるマクタヴィッシュをモントリオールの支配人に復活させている。 マクタヴィッシュは攻撃的な実業家で、ビジネスの世界での強者とはいつでも他人の弱点を攻撃する備えがある者であるということを理解していたが、彼の野心と権力は会社のパートナーたちとの不一致を起こし、数人が1970年代のうちに北西会社を去った。そのうちの数人は自分たちの会社を興した。彼らが毛皮の梱包に使った商標からこの会社は非公式に「XY会社」と呼ばれたが、1799年より北西会社の営業地域で毛皮の交換を開始した。探険家・政治家として成功していたアレクサンダー・マッケンジーは1801年にこの会社に合流したため、勢力は拡大した。両社の争いはエスカレートし、グレートベア湖の北西会社拠点の長はXY会社の従業員との争いのさなか銃撃されるに至った。 北西会社がライバル企業と激しく競争を行っていた1804年7月6日、サイモン・マクタヴィッシュは世を去り、ウィリアム・マクギリヴレイが新社長となり、XY会社との5年にわたる抗争に終止符を打つべく行動した。同年11月、XY会社との合意を成立させ、旧北西会社のパートナーが新会社の75%を、旧XY会社のパートナーが25%を所有することになった(アレクサンダー・マッケンジーはこのパートナーシップから除外された)。 ウィリアム・マクギリヴレイのもと、1800年代には営業地域を拡大し会社は大きく伸びた。しかしハドソン湾会社との競争は以前激しく、利ざやも縮小していった。北西会社のニューヨーク支店はジョン・ジェイコブ・アスターと協力し、アメリカ船籍の船を所有し運用することで、イギリス東インド会社の独占を回避して中国市場へ毛皮を輸出した。しかしアスターは、かつてのサイモン・マクタヴィッシュ同様攻撃的な性格で、ウィリアム・マクギリヴレイとの間では東洋貿易の方針や、まだ誰も領有を宣言していなかったオレゴン・カントリーのコロンビア川流域への勢力拡大などについて激しく対立した。
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