ウィキペディアでの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 10:46 UTC 版)
インターネットの書き込みは実名で行っており、ウィキペディア日本語版でも同様である。2010年のウィキメディア・カンファレンス・ジャパンでは、ウィキペディアを編集する「学術経験者」として招待講演を行った。2010年12月10日から2011年5月17日の間に、翻訳記事を中心に166本の新規記事を立ち上げたという。2011年12月から管理者を務めた。2019年9月28日には山田が実行委員長となり、「大学におけるウィキペディアの利活用と課題」を東京経済大学で開催。北村紗衣や渡邊智暁らが登壇した。 山田はウィキペディアが本質的に「演説台」であり、「独自の考えを発表する場」であり、「戦場」であり、「無法地帯」といった側面を持つ可能性を指摘し、新規参加者をいじめ、礼儀を忘れ、多重アカウントを駆使し、議論を混乱させ、自説を言いつづけ、時間をかけて大量のコメントを書きつづけた者が該当の記事を支配することがあると分析した。また、ウィキペディアのいわゆる「独自研究」に励むべき専門の研究者・学者は、定説を書くことを求められるウィキペディアとは相性が悪いとの見解も示している。
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ウィキペディアでの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/14 22:12 UTC 版)
「エミリー・テンプル=ウッド」の記事における「ウィキペディアでの活動」の解説
テンプル=ウッドはそのウィキペディアでの表現活動とともに、女性科学者に関するウィキペディア項目の作成に関して全国区の知名度を持つ。最初のウィキペディア編集は2005年、彼女が10歳の時であり、その編集の内容は彼女の姉ないし妹のことを「バカ野郎」と書いたものであり即座に削除された。ウィキペディアに寄稿しはじめたのは12歳の時で、ウィキペディアの編集のせいで初めてインターネットを通したハラスメントを受けたのも12歳の時であった。中学生の時、彼女は女性科学者に関する取り組みを始めた。2012年に女性科学者に関するウィキプロジェクトの共同設立者となり、以来数百もの女性科学者に関する項目をウィキペディアに立項している。"Keilana"という利用者名 を通じた編集で、彼女は王立協会員でも女性科学者の記事はほとんど存在しないことに気づき、女性科学者を主題にした記事を立項し始めた。彼女がこのことについてウィキメディア財団に語ったところによれば、「頭にきて一晩中項目を書いた。文字通り、寮の廊下で朝2時まで女性科学者の記事を書いた」という。彼女が最も満足のいった項目は、胸部外科医になった最初のアフリカ系アメリカ人女性である「ロザリン・スコット(英語版)」の項目である。 テンプル=ウッドはまた、ウィキペディアでの女性科学者に関する表現を向上させることを目的とした、博物館・図書館でのエディタソンの世話役でもある。2015年10月に The Atlantic に語ったところによれば、彼女はウィキペディアに独立項目が立項されるだけの特筆性があるのにもかかわらず項目が存在しない女性科学者が4400人いることを確認している。2016年3月、彼女は自身が受けたオンラインでのセクシュアルハラスメントに対するアプローチ、すなわち、彼女はセクシュアルハラスメント的な電子メールを受け取るたびにウィキペディアに女性科学者の項目をひとつ作成するという方法に関して世界中のメディアに取り上げられた。この月に彼女がバズフィードに「私のモチベーションはハラスメントを受けたフラストレーションを建設的な方向に転換することである」と語っている。2016年5月にthe Farderに、「ウィキペディアンとして、プロジェクトを始めたことはカバーしている範囲の差を見ての私の自然な反応であり、だから私は女性科学者のプロジェクトに携わっています。歴史の物語は男に独占されている。そして、ウィキペディアに女性の人物伝が含まれているということを確かにしていくことは、女性を物語の中に復権させ得るのです」と語っている。 彼女はその働きから2016年のウィキペディアン・オブ・ザ・イヤーをロージー・スティーヴンソン=グッドナイトと共に受賞した。
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ウィキペディアでの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 07:14 UTC 版)
北村は2010年から利用者名「さえぼー」でウィキペディアに参加し編集者としての活動を始め、自身の授業で「英日翻訳ウィキペディアン養成プロジェクト」を毎年手掛けている。日本科学史学会大会ではウィキペディア編集に関するパネルディスカッションを企画。2019年9月28日に山田晴通が実行委員として開催した「大学におけるウィキペディアの利活用と課題」では、渡邊智暁らとともに登壇した。 アート+フェミニズムでも講師を務めるなど、エディタソン活動も展開。2019年にラジオやテレビでウィキペディアンとして出演(「#出演」節も参照)する。東池袋自動車暴走死傷事故に伴うウィキペディア上の編集合戦では『朝日新聞』の取材に答え、ウィキペディア日本語版はプライバシーの基準が厳しく訴訟リスクを重視していると指摘した。 女性の編集者が少ないこと、女性に関する記事が少ないことについて問題提起し、2019年に日本で初めて開かれた「ウィキギャップ」にも協力した。2020年の情報科学技術協会の会誌への寄稿や、2021年3月22日の『毎日新聞』のインタビュー記事において、英語版ウィキペディアでキュリー夫人の単独記事がなかなかできなかったことなどの事例を紹介し、女性記事では特筆性が厳しく見られていると主張している。
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