イーオン・プロダクションズ
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種類 | 株式有限責任私会社 |
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略称 | Eon、イオン・プロ |
本社所在地 | ![]() ロンドンピカデリー138番地 イーオンハウス |
設立 | 1961年 |
事業内容 | 映画制作 |
代表者 | マイケル・G・ウィルソン バーバラ・ブロッコリ |
従業員数 | 50名 |
主要株主 | ダンジャック |
関係する人物 | アルバート・R・ブロッコリ ハリー・サルツマン マイケル・G・ウィルソン バーバラ・ブロッコリ |
外部リンク | www |
イーオン・プロダクションズ(Eon Productions Ltd.)は、ジェームズ・ボンドの映画の制作会社である。イギリスのロンドンに本拠を置く。ダンジャックの子会社。1961年にアルバート・R・ブロッコリとハリー・サルツマンにより設立された。日本語での表記は、イオン・プロダクション、イオン・プロなどとされることが多い。
制作映画
年 | 題名 | 主演 |
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1962 | 007/ドクター・ノオ Dr. No |
ショーン・コネリー |
1963 | 007/ロシアより愛をこめて From Russia with Love |
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1964 | 007/ゴールドフィンガー Goldfinger |
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1965 | 007/サンダーボール作戦 Thunderball |
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1967 | 007は二度死ぬ You Only Live Twice |
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1969 | 女王陛下の007 On Her Majesty's Secret Service |
ジョージ・レーゼンビー |
1971 | 007/ダイヤモンドは永遠に Diamonds Are Forever |
ショーン・コネリー |
1973 | 007/死ぬのは奴らだ Live and Let Die |
ロジャー・ムーア |
1974 | 007/黄金銃を持つ男 The Man with the Golden Gun |
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1977 | 007/私を愛したスパイ The Spy Who Loved Me |
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1979 | 007/ムーンレイカー Moonraker |
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1981 | 007/ユア・アイズ・オンリー For Your Eyes Only |
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1983 | 007/オクトパシー Octopussy |
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1985 | 007/美しき獲物たち A View To A Kill |
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1987 | 007/リビング・デイライツ The Living Daylights |
ティモシー・ダルトン |
1989 | 007/消されたライセンス Licence To Kill |
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1995 | ゴールデンアイ GoldenEye |
ピアース・ブロスナン |
1997 | トゥモロー・ネバー・ダイ Tomorrow Never Dies |
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1999 | ワールド・イズ・ノット・イナフ The World Is Not Enough |
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2002 | 007/ダイ・アナザー・デイ Die Another Day |
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2006 | 007/カジノ・ロワイヤル Casino Royale |
ダニエル・クレイグ |
2008 | 007/慰めの報酬 Quantum of Solace |
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2012 | 007 スカイフォール Skyfall |
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2015 | 007 スペクター Spectre |
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2021 | 007/ノー・タイム・トゥ・ダイ No Time To Die |
その他
年 | 題名 |
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1963 | 腰抜けアフリカ博士 Call Me Bwana |
2017 | リヴァプール、最後の恋 Film Stars Don't Die in Liverpool |
2018 | ナンシー Nancy |
2020 | リズム・セクション The Rhythm Section |
2022 | ティル Till |
TBA | Remake's Chitty Chitty Bang Bang |
外部リンク
イーオン・プロダクションズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 14:04 UTC 版)
「ジェームズ・ボンド」の記事における「イーオン・プロダクションズ」の解説
1960年頃、フレミングの原作を読んだプロデューサーのアルバート・R・ブロッコリは、「これは映画化に向いている」と感じ、フレミングの元へ行き交渉を求めた。しかし、フレミングは映像権を一足先にハリー・サルツマンに売り渡していた。一方のサルツマンは、映像権の有効期限内に出資先を見つけるべく奔走していたものの、金策に尽きていた状況だった。そこへ、ブロッコリが接触し、二人は手を組んでロンドンにイーオン・プロダクションズ(以下イオン・プロ)を設立し、協力して007映画の制作に当たることになった。 プロダクションの設立後、サルツマンとブロッコリの二人はハリウッドの大手映画会社ユナイテッド・アーティスツ(以下UA)と契約を交わすべく渡米。ニューヨークでUAの社長であったアーサー・B・クリム(英語版)と面会し、映画化を打診した。当時UAの社長秘書でフレミングの原作の大ファンでもあったデヴィッド・V・ピッカー(英語版)の後押しも受け、UAの出資が決定した。この際UAはイオン・プロに対し、全面的な融資を行うこと、そして、最低でも7本のボンド映画の製作・配給を行うという条件で契約を交わし、遂に007の映画化プロジェクトが本格的に始動した。 当初イオン・プロは、第1作目に『サンダーボール作戦』を映画化しようとしていたものの、UAは権利関係の問題や予算の都合を上げ、却下された。その結果SF色の強い『ドクター・ノオ』が選ばれた。監督に関しては、当初イオン・プロはアメリカ人監督を推していたものの、UAは、作品の内容から判断し、イギリス人監督を推奨。その後、職人肌で、戦時中は諜報活動に従事していたテレンス・ヤングを監督に当てて、ボンド映画第1作目『007/ドクター・ノオ』が映画化された(1962年公開。邦題は『007は殺しの番号』)。この映画は100万ドルという低予算作品ながらも、興行収入は5900万ドルと予想以上の大ヒットとなった。主役のショーン・コネリーはこの1作で成功、ボンドは彼の当たり役となった。モンティ・ノーマン作曲、ジョン・バリー編曲、演奏の「ジェームズ・ボンドのテーマ」も大好評で、以後の作品のオープニングで、ボンドを狙う銃口が逆に撃たれて血を流すシーン(ガンバレル・シークエンス)と共に必ず流されるようになった。 この作品のヒットに影響され、1960年代中期には「007もどき」のB級スパイ映画が世界各国で濫造されたが、一つとして007を超える成功を収めたものはなかった。 『ドクター・ノオ』以後、イオン・プロによって制作される007映画は、主演俳優を幾度か変えつつも、現在に至るまで人気シリーズとして存続している。 1970年代初期以降の作品は、フレミングの小説から題名のみを借りたシナリオライターによるオリジナルストーリーで、原作とほとんど無関係となっている。その内容は、派手な設定とグラマラスな美女、大物俳優のゲスト出演をセットとした、エンターテインメントの王道とも言うべきもので、設定は全般に様式的なものとなっている。1990年代の作品からは映画オリジナル作品が主流となり、2008年公開の『慰めの報酬』でフレミングの小説は完全に枯渇している。
※この「イーオン・プロダクションズ」の解説は、「ジェームズ・ボンド」の解説の一部です。
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