イレデンタ回収主義と二つの世界大戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:39 UTC 版)
「イタリア統一運動」の記事における「イレデンタ回収主義と二つの世界大戦」の解説
詳細は「未回収のイタリア」を参照 イタリア人を単一国家に統一しようとするプロセスは19世紀には完了しなかった。依然として多数のイタリア人が国境外に居住しており、この状況は民族統一主義 (Irredentismo) を生み出した。 イレデンタ回収主義(Irredentismo italiano) はイタリア統一後に現れたイタリア・ナショナリズムの論点となった。この主張はイタリア人やイタリアに帰属したいと望む民族を統一しようとする運動である。これは正式な組織ではなく、オピニオン・ムーブメントであり、イタリアは自然国境に達せねばならないとする主張であった。同じような愛国またはナショナリズム思想は19世紀の欧州では一般的なものであった。 統一後の時代、一部の人々はイタリア王国の現状に不満を抱いており、イレデンタ回収主義はイタリア統一後もなお外国の支配下にあるイタリア人全てを解放するという大義を自認していた。その土地で話されている言語が彼らが解放すべきイタリア人地域の根拠となり、具体的にはトレンティーノ、トリエステ、ダルマチア、イストリア、ゴリツィア、ティチーノ、ニース(ニッツァ)、コルシカ島そしてマルタである。 第一次世界大戦が勃発した時、イタリアはドイツ、オーストリアと三国同盟を結んでいたが、この同盟の参戦要件が加盟国が先に攻撃受けた時となっていたことを理由に中立に留まった。オーストリアはイタリアの中立を望んでいたが、三国協商(英仏露)は参戦を要請した。1915年4月に締結されたロンドン条約により、イタリアはフリウリ、トレンティーノとダルマチアといった未回収地の領有を条件に中央同盟国に対して宣戦布告した。当時のイタリア議会の大半は中立派であったが、サランドラ(英語版) 首相は参戦運動を利用した脅迫的手段で中立派議員を屈服させて開戦に踏み切っている。終戦後のサン=ジェルマン条約でイタリアはイストリアと南チロルの併合に成功しており、各々ヴェネツィア・ジュリアとトレンティーノになった。だが、この第一次世界大戦でイタリアは第二次世界大戦を凌ぐ141万人もの死傷者を出しており、戦後は国民の不満から政情が不安定になり、ベニート・ムッソリーニのファシスト政権の成立を促すこととなった。 第二次世界大戦が勃発し、枢軸国がユーゴスラビアを侵略した後、イタリアはダルマチア行政区(英語版)(Governatorato di Dalmazia:1941 年から1943年9月)を創設した。これによりイタリア王国は一時的ではあるスプリト、コトルとダルマチア沿岸の大部分を併合することになった。また、ヴィシー・フランス占領作戦により、1942年から1943年までフランス領のサヴォワ、コルシカそしてニースがイタリア軍に占領されており、イレデンタ回収主義の目標がほぼ満たされた。だが、ファシスト政権の敗北により、第二次世界大戦中に獲得したこれらの回収地の全てが失われることになった。 第二次世界大戦以後、イレデンタ回収主義はイタリア政治から消滅した。1947年のパリ講和条約によりトリエステ自由地域(1954年にイタリアとユーゴスラビアに分割)を除くイストリア半島がユーゴスラビアに割譲されることになった。イストリアとダルマチアのイタリア系住民は数千人が残っただけであり、約30万人がイタリアに避難した(イストリア難民(英語版))。 イレデンタ回収主義で領有主張がなされた地域 オーストリア=ハンガリー帝国領(第一次世界大戦後に併合):トレンティーノ、トリエステ、イストリア、ゴリツィア オーストリア=ハンガリー帝国領→ユーゴスラビア王国領(第二次世界大戦中に併合):ダルマチア フランス領(第二次世界大戦中に占領):サヴォイア(サヴォワ)、ニッツァ(ニース)、コルシカ島 スイス領:ティチーノ州とグラウビュンデン州の一部 イギリス領:マルタ島
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