アスコットでの栄光
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「ジョージ4世と競馬」の記事における「アスコットでの栄光」の解説
1792年の肖像。 1790年のオートランズステークス。奥側のエスケープ号が僅差で2着となる。(ジョン・ノット・ザルトリウス(1755-1828)の作品) ジョージが名実ともにイギリスで一番の馬主となったのは1791年のことである。 その前年、1790年6月にアスコット競馬場でイギリス最大の競馬レースが創設された。これはオートランズステークス(Oatlands Stakes)といい、競馬史上初の、3頭以上によるハンデ戦だった。どの馬にも均等に勝つチャンスが有るという企画は画期的で、馬主以外の第三者が賭けに参加することの魅力が広まり、競馬が広く人気のある娯楽へと変遷する契機になった。優勝賞金の原資となる登録料は1頭あたり100ギニー(105ポンド)も必要だったが、イギリス中から出走希望馬が集まり、賞金は膨れ上がった。 ジョージは全英が注目するこの空前の大レースに参戦するため、当時の一流馬エスケープ(Escape)号を入手した。実は、エスケープ号はもともとジョージ自身が1785年に生産した馬だったのだが、1786年の資金難のときに手放してしまっていた。それが活躍したので1500ギニー(1575ポンド)も出して買い戻したのである。エスケープ号は第1回オートランズステークスで2.0倍の大本命となった。しかしエスケープ号は惜しくもアタマ差で2着に敗れた。勝ったのは父ジョージ3世が毛嫌いしていたホイッグ党党首チャールズ・ジェームズ・フォックスのシーガル号だった。(ジョージ自身はフォックスとは酒、女、ギャンブルを楽しむ遊び仲間で「悪友」だった。) ジョージは翌1791年の第2回オートランズステークスに優勝することに情熱を傾けた。6月に開催されるレースの半年前に、各登録馬に与えられるハンデキャップが発表されることになっており、それが公表されるとジョージはめぼしい登録馬を買い集めた。そしてそれらの馬を集め、オートランズステークスと同じ距離、同じ斤量で競わせ、出走させる馬を厳選していった。直前まで候補に残ったのは、エスケープ号、バロネット号、ペガサス号、スモーカー号の4頭である。アスコット開催の5日前、ジョージはエプソム競馬場で4頭による最後の試走を行い、エスケープ号とバロネット号の出走を決めた。 1791年のオートランズステークス。奥側のバロネット号が半馬身差で優勝。(ジョン・ノット・ザルトリウス(1755-1828)の作品) 先頭のバロネット号の拡大図。チフニー騎手が王室の勝負服を着用している。 第2回オートランズステークスの優勝賞金は2950ギニー(約3100ポンド)と、ダービーの3倍にのぼった。当時としてはかなり多頭数となる19頭が出走し、この年のダービー2着馬が本命になった。このレースは第1回以上に話題を集め、アスコット競馬場の歴史でも空前となる4万人の観衆が押し寄せ、賭けの総額は10万ポンドを超えた。なかにはバリモア伯爵(Richard Barry)のように、一人で2万ポンドも賭けている者さえいた。 ジョージはエスケープ号での優勝を信じており、エスケープ号にたっぷり賭けていた。ジョージはお抱え騎手のサム・チフニー(Samuel Chifney)にエスケープ号に乗るように指示していた。ところがチフニー騎手はレースの寸前の馬の様子をみて、エスケープ号が調子を落としていると考えた。そこでチフニー騎手は慌てて2ヶ所の賭け場へ走り、それぞれバロネット号に30ポンドと27ポンド賭けた。これが当たれば1000ポンドになるはずだった。 このあたりのジョージとチフニー騎手、調教師のウォリック・レイクらの間で行われたやり取りについては、内容の異なる様々な伝聞がある。ある説では、4頭の候補馬がアスコット競馬場に到着したのを見た途端、チフニー騎手はエスケープ号では勝てないと踏み、バロネット号への騎乗を申し出たという。一方レイク調教師はエスケープ号の調子は悪くないと反対した。ジョージはどうするか決めかねて、レース当日になってから自分に相談すること無くチフニー騎手自身で決めて良い、と伝えたとされている。また別の伝聞では、エスケープ号とバロネット号を出走させると告げてきたジョージに対し、チフニー騎手は直談判をしてその場でバロネット号騎乗の許可を得たという。このときレイク調教師はエスケープ号の調子は万全だと言った。ジョージがチフニー騎手にバロネット号にそんなに自信があるのかと尋ねると、チフニー騎手は、ほかにも強力な出走馬がいるから勝利の確約はできないが、勝機はかなりあるはずだ、と答えたという。 チフニー騎手にとっての心配の種が一つだけあった。ジョージはエスケープ号に相当賭けているはずだから、もしもバロネット号がエスケープ号を負かしてしまうようなことになると、ジョージが損をするのではないかということだった。そこで思い切ってそのことをジョージに尋ねてみた。するとジョージは、これは他言無用の内緒の話だがと断った上で、実は保険としてこっそりバロネット号にも賭けているから、バロネット号が勝った場合でも17000ポンドの儲けになると答えた。 レースが始まると、エクスプレス号という馬が先頭に立ち、4馬身後ろでバロネット号がこれに続き、さらに2馬身離れた3番手にジョージの本命エスケープ号がつけた。ゴールまであと半マイル(約804メートル)というあたりで、チフニー騎手は後ろを走るエスケープ号の行き振りが思わしくないのをみると、これを見捨ててエクスプレス号との勝負に出ることにした。両馬は全く並んでゴールまで激しく争い、最後の最後にバロネット号がわずかに前に出て優勝した。当時の『タイムズ』紙によれば、両馬はほぼ並んでいたが、ゴール寸前でバロネット号は半馬身の差をつけたという。この勝利により、ジョージはイギリスで一番の大レースの優勝馬主となった。 普段はジョージが競馬に散財することを諌めていた父ジョージ3世も、この時ばかりはジョージを褒めたという。ジョージ3世は「おまえのバロネット号はよく稼ぐ。儂は先週14人に準男爵位(バロネット)を授けたが、奴らは1ペニーだってよこさない。」と言ったと伝えられている。バロネット号はこのあとイギリス各地で勝利をおさめ、アメリカへ種牡馬として売られていった。
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