もののけ
★1.死霊・生霊・妖怪などが、病気・懐妊中の女性にとりついて苦しめる。
『有明けの別れ』巻2 右大臣家の大君は、左大臣の子を身ごもるが、もののけ(=中務卿宮北の方の嫉妬による生霊)に取りつかれる。同じ頃、内大臣の娘四条の上(=左大臣を婿とする)も、もののけに襲われ、苦しむ。
『紫式部日記』 寛弘5年(1008)9月10日。中宮彰子の御産を妨げようと、多くのもののけが取りつく。修験僧たちが、もののけを中宮からひき剥がして、憑坐(よりまし)たちに移す。もののけが乗り移った憑坐は、1人ずつ屏風で囲って、修験僧が調伏する。11日。無事に皇子(=後一条天皇)が誕生したので、もののけたちは悔しがってわめいた。もののけに引き倒されてしまう憑坐もいた。
『夜の寝覚』(五巻本)巻4 内大臣の妻女一の宮が病む。多くのもののけが出てくる中に、「寝覚の上の生霊」と名乗るものが現れ、「内大臣が自分を正妻として扱って下さらないことがうらめしい。女一の宮を生かしてはおかぬ」と言う。しかし内大臣はこれを本物と思わず、「狐などのしわざ」と言う。
『栄花物語』巻12「たまのむらぎく」 藤原頼通が重病になり、僧たちが病気平癒の修法を行なう。群小のもののけが、憑坐(よりまし)の口を借りて大声をあげる。もののけの本体が現れないので、頼通の父・道長が『法華経』に救いを求める。故具平親王(=頼通の妻の父親)の霊が、1人の女房に憑依する。「頼通を三条帝の女二の宮の婿に」との縁談があり、具平親王の霊はそれを心配して、道長に縁談の取りやめを請う。縁談は中止になり、頼通の病気は治った。
『讃岐典侍日記』 大勢の高僧たちが、重態の堀河天皇の平癒を祈る。「三井寺の隆明僧正」とか「頼豪」とか、大声で名乗るもののけが現れ、「先年以来、三井寺への行幸がないことを御注意申し上げるのだ」と告げる。堀河天皇は「病気が治ったら必ず行幸しよう」と言う。しかしそれから1日か2日して、堀河天皇は崩御された。
★3a.一人の女の生霊・死霊が、二十数年、あるいは三十年にも渡って、何人もの女を苦しめる。
『源氏物語』 光源氏22歳の8月、六条御息所の生霊が、出産間近な葵の上を取り殺す(*→〔妬婦〕1b)。光源氏29歳の9月、六条御息所は36歳で病死する。光源氏47歳の1月、六条御息所の死霊が紫の上にとりついて危篤状態に陥らせる。4月、女三の宮が柏木と密通し、翌年、女三の宮は出家する。これも六条御息所の死霊のしわざであった(*→〔霊〕2b)〔*光源氏17歳の時の、夕顔の死(*→〔八月十五夜〕9)も、六条御息所の生霊によるものかもしれない〕。
★3b.一人の法師の死霊が、二年余を隔てて、二人の女(異父姉妹)にとりつき苦しめる。
『源氏物語』「手習」 ある法師が、この世に恨みを残して死んだため、成仏できずにさまよっていた。法師の霊は、宇治の八の宮の邸に住みつき、まず大君を取り殺した。さらにそれから2年余の後、大君の異母妹・浮舟が死を願っていたのにつけこんで、彼女をさらい、とりついて苦しめた。しかし横川の僧都の加持により、法師の霊は浮舟から離れ、どこかへ去って行った。
『平治物語』下「悪源太雷となる事」 難波三郎恒房は、悪源太義平を処刑して後、つねに邪気心地(もののけにとりつかれたような状態)だった。摂津国箕面(みのお)の滝の水に打たれれば邪気は去る、と聞いて、恒房は箕面の滝へ出かける。その時また邪気心地が起こり、恒房は、深さ1里といわれる滝壺へ走り入る→〔龍宮〕1d。
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