まばゆい栄光
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 03:03 UTC 版)
「エクトール・ギマール」の記事における「まばゆい栄光」の解説
カステル・ベランジェによってギマールの名は急速に知られることになり、多くの注文が舞い込むことで、彼は自身の美学――とりわけ調和、およびスタイルの連続性(アール・ヌーヴォーの主な理想)――の研究を以前にまして推し進めることができるようになった。そしてそのことが、1909年のギマール邸(富裕なアメリカ人妻で画家のアドリーヌ (fr) への結婚プレゼント)を頂点とする、インテリア装飾のほぼ全体主義的なデザインへと彼を導いたのであった。その卵形の部屋には、建物の統一的な構成要素としてのユニークな家具類が備えつけられていた。 ヴィクトール・オルタ特有の光窓は、ギマールの作品にはむしろ欠けた要素であるが(1911年のメザラ邸という後期の例を除けば)、ギマールは彼の建築物の容積測定において、驚くべき空間的実験を行った。特にコワイヨー邸とその困惑を誘うダブル・ファサード(1898年)、ヴィラ・ラ・ブリュエットとその美しい容積的調和(1898年)、そしてとりわけカステル・アンリエット(1899年)とカステル・ドルジュヴァル(1905年)。これはすなわちル・コルビュジエ理論の25年前における、力強く非対称的な「フリー・プラン」の過激なデモンストレーションである。しかしながら、対称性は捨て去られたわけではない。1905年の豪奢なノザル邸は、ヴィオレ・ル・デュックの提唱した方形図の合理的配置を利用している。 構造上の革新性も損なわれることはなかった。例えばすばらしいコンサートホール・アンベール=ドゥ=ロマン(1901年)では、複雑に入り組んだフレームによって音波が分離されることとなり、それが完璧な音響効果につながった。あるいはギマール邸(1909年)では、土地の狭さのために建築家は外壁上のいかなる支持機能をも排除することができ、そのため階ごとにそれぞれ異なった内部の空間構成が可能になった。 非常に好奇心旺盛なギマールはまた、新しい芸術を大々的に普及させたいと願っていたかぎりで、工業的規格化の先駆者でもあった。この領域で彼は本当の成功を(スキャンダルもあったが)味わった。それがかの有名なメトロ (パリ)、すなわちヴィオレ・ル・デュクの構造装飾原理が成功を収めた、組み換え自在な構築物である。このアイディアは1907年にも(あまり成功しなかったが)建築物に装着可能な鋳鉄部品カタログ「芸術的鋳鉄、ギマール様式」で再び採用された。 全世界的な建築の枠組みにおいては、彼の芸術作品に内在する考え方は、形式の連続性(これが1903年の「ビネルの花瓶」のように、独特な本体部分にあらゆる実用的機能を融合させることを可能にした)、および直線的な連続性(華奢で均整のとれたシルエットをもつ彼の家具類のデッサンに見られるような)という同一の理想に由来するものだった。 彼独特の様式についての語彙は、まったく抽象的な意味にとどまるが、特にイメージ喚起的な植物有機体から来ている。刳形(くりがた)や渦巻き模様は、石材にも木材にもつけられている。ギマールは、ステンドグラスに(メザラ邸、1910年)、あるいは陶製パネルに(コワイヨー邸、1898年)、金具類に(カステル・アンリエット、1899)、壁紙に(カステル・ベランジェ、1898年)、布地に(ギマール邸、1909年)、同様の闊達さを付与するような、さまざまな抽象的作品を生み出したのである。
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