禖子内親王 (後朱雀天皇皇女)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 禖子内親王 (後朱雀天皇皇女)の意味・解説 

禖子内親王 (後朱雀天皇皇女)

(ばい子内親王_(後朱雀天皇皇女) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/20 14:15 UTC 版)

禖子内親王
続柄 後朱雀天皇第四皇女

全名 禖子 ばいし/みわこ
称号 六条斎院
出生 長暦3年8月19日1039年9月10日
死去 嘉保3年9月13日1096年10月1日)(享年58)
父親 後朱雀天皇
母親 中宮藤原嫄子
役職 賀茂斎院
テンプレートを表示

禖子内親王(ばいし〈みわこ〉ないしんのう、長暦3年8月19日1039年9月10日[1] - 嘉保3年9月13日1096年10月1日[1])は、後朱雀天皇の第4皇女。母は中宮藤原嫄子[1]、同母姉に祐子内親王[1]後冷泉天皇賀茂斎院、号は六条斎院[1]

略歴

誕生後わずか10日で母后・嫄子が崩御[1]、姉・祐子内親王と共に祖父・藤原頼通の元で育てられた[要出典]寛徳3年(1046年)3月24日、兄・後冷泉天皇の即位に伴い8歳で賀茂斎院に卜定[1]、寛徳3年(1048年)4月12日に紫野院へ入る[要出典]。病弱のため康平元年(1058年)4月3日に20歳で斎院を退き[1]、その後も長く病に苦しんだらしい[1]。一方で幼い頃から和歌の才能に優れていたといわれ、「天喜三年(1055年)五月三日物語歌合」を始め、判明しているだけで25回もの歌合を開催した[1]。斎院退下の後は、母方の曽祖父である具平親王の六条邸に住んだという[要出典]。晩年に出家、嘉保3年(1096年)58歳で薨去[1]

なお、禖子内親王に仕えた歌人六条斎院宣旨は『狭衣物語』の作者であると言われる[要出典]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第5巻』岩波書店、1984年10月、33頁。 



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  禖子内親王 (後朱雀天皇皇女)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「禖子内親王 (後朱雀天皇皇女)」の関連用語

禖子内親王 (後朱雀天皇皇女)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



禖子内親王 (後朱雀天皇皇女)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの禖子内親王 (後朱雀天皇皇女) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS