禧妃
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禧妃(きひ、? - 光緒3年(1877年)5月16日)は清の咸豊帝の妃嬪。名は海棠春、姓は察哈拉(チャハラ)氏。正黄旗包衣管領下の家庭に生まれ、父は厨役(宮廷の料理人)常順。
生涯
同治3年(1864年)の内務府三旗女子の選抜において、「正黄旗瑞溥管領下の厨役・常順の娘、二妞(ニニョウ)、亥年生まれ、14歳」との記録がある[1]。彼女は禧嬪(禧妃)の実妹とされているため、禧妃は家族の長女であった可能性が高い。
察哈拉氏の生年は不詳だが、内務府の選秀(後宮選抜)を経て入宮し、長春宮の宮女となる。
咸豊9年(1859年)4月10日、正黄旗瑞溥管領下の厨役・常順の娘が禧貴人に封じられる。
翌日(4月11日)には、「長春宮の女子・海棠春が禧貴人に封じられる」との詔が伝えられた。 序列は吉貴人の次とされた。
4月12日、総管内務府が禧貴人の家族のために恩を謝す。
咸豊10年(1860年)10月、咸豊帝の崩御後、即位した同治帝により禧嬪に尊封される。
同治8年(1869年)5月12日、容嬪伊爾根覚羅氏が薨去し、遺体が吉安所に移される。禧嬪と慶嬪は、宮廷を出て吉安所で彼女の葬送に立ち会った。
同治13年(1874年)11月、同治帝の崩御後、即位した光緒帝により禧妃に尊封される。
晩年と死後
光緒3年(1877年)5月16日、逝去。
死後、定陵妃園寝に埋葬された。
参考資料
- 『清史稿』
出典
- ^ 『内務府奏稿』
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