容嬪とは? わかりやすく解説

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容嬪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/02 06:07 UTC 版)

容嬪(ようひん、道光17年6月4日1837年7月6日) - 同治8年5月12日1869年6月21日))は、咸豊帝の妃嬪。満州鑲黄旗包衣佐領の出身。姓は伊爾根覚羅(イルゲンギョロ)氏。父は咸安宮官学の従六品清話教習・薩爾杭阿で、彼の一人娘であった。

生涯

道光17年(1837年)6月4日生まれ。

咸豊3年(1853年)8月、容常在に封じられる。また、如意館では「容常在の半身肖像画」を制作した記録がある。

同年10月20日、容常在のもとに新たに2人の宮女が配属される。

咸豊5年(1855年)10月、容貴人に昇格。

咸豊11年(1861年)10月、咸豊帝の崩御後、新たに即位した同治帝皇考容嬪に尊封する。

しかし、容嬪の正式な冊封手続きは彼女の死去時まで行われず、そのため鍍金銀冊や采仗の製造も中止された。

同治8年(1869年)5月12日、容嬪が死去。

遺体は吉安所に安置され、禧嬪(察哈喇氏)慶嬪(張氏)が宮廷を出て弔問。

その後、金棺は田村に一時安置され、最終的に定陵妃園寝(現在の河北省遵化市清東陵)に埋葬。

同年6月7日、総管・張得喜が「容嬪の喪服を着る宮廷女子(正白旗原披甲人・興章の娘)を婚姻のために実家へ帰す」旨の報告を提出。

家族

  • 曾祖父(曽祖父):伊里布 - 内務府披甲人(正規兵)。
  • 祖父:慱爾豁(伊里布の一人息子) - 嘉慶年間に翻訳生員として試験を受け、内務府披甲人となる。最終官位は六品教習。
  • 父:薩爾杭阿(慱爾豁の一人息子) - 嘉慶元年(1796年)生まれ。道光年間に咸安宮官学の清話教習を務める。道光11年(1831年)、5年の任期満了により七品に昇進。道光16年(1836年)、さらに従六品に昇進。道光18年(1838年)5月13日、病により死去。
  • 母:駱氏(鑲黄旗包衣管領下の人) - 夫(薩爾杭阿)が病死した後、母娘二人は毎月1両の寡婦手当で生活。亡夫の親族・英奎の家に身を寄せる。咸豊11年(1861年)、同治帝が容貴人を「容嬪」に尊封する際、英奎の叔父である阿昌阿(容嬪の族叔)が家族代表として謝恩。

伝記資料




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