がま剣法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/08 00:25 UTC 版)
第4試合は駿河城槍術指南・笹原修三郎と浮浪人・屈木頑乃助の組み合わせであった。だが、この試合が果たして無事に行われるかは誰一人として分からなかった。というのも、頑乃助は駿河城下において名だたる剣士達を殺害したという凶漢。噂では富士の風穴に潜んでいると言われているが、定かではなかった。多くの者は修三郎の勝利を予想していたし、また願ってもいた。しかし、同時に頑乃助が勝利するのではないかという危惧の念を抱いていたのも事実だった。かつて駿府城下の舟木道場の下男であった頑乃助をここまで一躍有名人にしたのが、毎年5月5日に同道場にて行われる兜投げの武技と当主・一伝斎の娘である千加の婿選びがきっかけであった。 屈木頑乃助(くつき がんのすけ) 第4試合「がま剣法」の主人公。元々は行き倒れの浪士の孤児であったが、一伝斎によって拾われて道場の下男となる。肥った体と短い足、蒼黒い顔に離れた両眼と潰れた鼻という醜悪な容姿の持ち主だが、剣術において天稟を持ち合わせてもいた。一伝斎の娘・千加に恋心を抱き、千加の部屋の床下に毎晩潜む事を日課としていた。千加を欲するあまり、千加の婿選びの意味合いを持つ兜投げの武技に参加するも、一伝斎の計略によって結果は失敗。その失意から、無断逐電して富士の風穴にて独自の剣技・がま剣法を習得する。その後、千加の夫・斎田宗乃助を闇討ち、更に再び行われた兜投げに参加、成し遂げると同時に今年の成功者であった倉川喜左衛門を周囲の面前にて殺害。その時、千加が自分を差し置いて結婚した時、その夫を必ず殺す事を宣言する。そして、その予告通りに新たに千加の夫となった藩士・笹原権八郎を屠った事で駿府城下を震撼させた。そんな中、頑乃助に寛永6年9月24日の御前試合にて決着を望む権八郎の従兄・笹原修三朗から果たし状が駿府城下に張り出される。 笹原修三朗(ささはら しゅうざぶろう) 駿河藩槍術指南であり、第4試合「がま剣法」のもう1人の主人公。齢30過ぎだが、鎌宝蔵院流中村派槍術の達人で長身白皙の美丈夫。愛槍「銀蛇号」を持って頑乃助に対して勝負を臨む。以前、千加の夫となった従弟・権八郎に槍術を教えたものの、槍を遣う事もできず権八郎は殺害されてしまう。それを聞きつけ、鉄砲組を引き連れて討ち取ろうとする者達を制止し、御前試合での決着の場を設けた。かつて、徳川忠長が久能山の家康廟を詣でた際、石段に一丈近くの大蛇が居座って通れない時があった。その時、槍を用いて大蛇の舌を突き刺して血を一滴も垂らさずに脇に退けた事がある。その一件後、修三朗の槍は「舌切り槍」と唱えられるようになる。 笹原権八郎(ささはら ごんぱちろう) 修三朗の従弟で駿河藩藩士。藩中でも一刀流の遣い手として知られていた。千加の2度目の婿選びとして行われた兜投げにおいて、兜を投げる役を務めていた。その際に頑乃助による倉川喜左衛門の殺害と逃亡を許した事に剣の道における自負心を傷つけられる。頑乃助の登場によって、人々は千加に近寄らなくなっていたが、千加を慰め、一伝斎を鼓舞していた唯一の人物。それがきっかけで千加は権八郎に再嫁する事となった。だが、権八郎は自らの剣技が頑乃助のがま剣法に通じるかと疑問を持ち、槍術の達人である従兄・修三朗を訪れる。そこで、がま剣法対策として槍術を学び、上達する。しかし、登城の日に頑乃助の襲撃を受け、槍持ちの若党・佐助を殺される。槍を用いられなくなった権八郎は剣術で応戦するも、がま剣法の前に斃れる事となる。 舟木一伝斎(ふなき いちでんさい) 駿府城下において、慶長以来の名人と言われた剣客。自らの道場を持ち、毎年5月5日に兜投げの武技を行っている。孤児であった頑乃助に剣術の天稟を見抜くなど剣客としての勘に優れている。寛永4年の兜投げにおいては頑乃助の参加を許可するも、頑乃助が成し遂げる事を恐れて斬り辛いように兜を投げた。寛永5年の兜投げでは検分役を務めていたが、突然の頑乃助の参加の際に自ら兜を文字通り地面に叩きつけるように投げた。だが、頑乃助はこの兜を見事に叩き割る事に成功してしまう。その後、千加の夫となった権八郎に道場を託し、死去。 千加(ちか) 舟木道場当主である一伝斎の一人娘で稀有な美貌の持ち主。一伝斎の跡継ぎとして、毎年5月5日の兜投げを便宜上の婿選びの儀式にした(もっとも、この兜投げの武技が婿選びである事は一伝斎自身は意思表示していない)。しかし、夫となった斎田宗乃助、候補であった倉川喜左衛門、更に権八郎を頑乃助によって殺された事で頑乃助を強く恐れるようになる。そうした中、修三朗は必ず亡夫の仇を討つ事を宣言、決戦の地である寛永6年9月24日の御前試合に招待される。 斎田宗乃助(さいだ そうのすけ) 藩士であり、舟木道場随一の実力者。前年の兜投げでは3寸5分まで兜を斬った腕前を持つ。寛永4年の兜投げでは唯一成功し、見事に千加と婚姻を結ぶ事に成功した。舟木道場の師範代として一伝斎の代わりに一切を受けていたが、年始回りの際に頑乃助の闇討ちによって殺害される。実力者である彼の死と、その死体が両足を切断、更に鼻を削がれた上に喉を突かれていたという事実は、周囲を慄然とさせた。 倉川喜左衛門(くらかわ きざえもん) 浪士だが、舟木道場では傑出した剣士。しかし、寛永4年の兜投げでは2寸斬り下げるのみで斎田宗乃助に破れる。更に寛永5年の兜投げでは成功するも、突如兜投げに参加してきた頑乃助によって周囲の面前にて斎田宗乃助と同じ手口で殺されてしまう。この出来事で、頑乃助が斎田宗乃助殺害の犯人である事が発覚、同時に頑乃助を恐れて千加に近づく者が激減した。 桑木十蔵(くわき じゅうぞう) 斎田宗乃助と同じく藩士であり、舟木道場の傑出した剣士の1人。しかし、寛永4年の兜投げでは兜を傷つけただけで失敗してしまう。
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がま剣法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 16:01 UTC 版)
屈木頑之助が富士山麓で独自に編み出した剣法。頑之助の特徴的な巨大な頭部を起点とし、頭部を地面に付けたまま、後背筋ではね上がり、ブレイクダンスのヘッドスピンのように回転しながら相手の両足を切断する。
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