「石川鑑定」
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「永山則夫連続射殺事件」の記事における「「石川鑑定」」の解説
「静岡事件」の審理と同じころ、永山は新たな流れの裁判の中で「自分に対する正しい精神鑑定」を望むようになっていた。これを受け、第42回公判(1973年10月12日)で冒頭陳述を終えた弁護側は「1回目の精神鑑定では永山が非協力的だった。永山は当時と違い、現在は裁判に対する否定的・無関心的な態度はなく、真実に基づいた正しい精神鑑定を自ら望んでいる。被告人・永山の精神状態を正しく把握した上で裁判を行うべきだ」として、改めて永山の精神鑑定を申請した。東京地裁刑事第5部(海老原震一裁判長)は第43回公判(1973年11月28日)で精神鑑定の採用を決定し、八王子医療刑務所の石川義博技官に鑑定を命じた。同月以降、審理は約1年5か月間にわたって一時中断し、石川が半年間にわたって永山から聞き取りを行い、青森を訪れて永山の母らからも話を聞いたほか、永山自身も取り調べの時とは一転して石川に対しては自らの生い立ちや事件までを語った。一方、裁判長を務めていた海老原は1974年4月1日付で横浜地裁小田原支部へ転出したため、同日以降は西川潔判事(前:司法研修所教官)が3人目の裁判長となった。 1974年8月31日、東京地裁刑事第5部(西川潔裁判長)に「石川鑑定書」が提出された。石川が完成させた鑑定結果(「石川鑑定」)は当時、日本ではほとんど知られていなかったPTSD(心的外傷後ストレス障害)の理論を用い「永山の出生以来の劣悪な環境、遺伝的条件、思春期の危機的心性、沖仲仕などの重労働や放浪による栄養・睡眠傷害、ストレス、社会からの孤立状況などが複雑に交錯し、犯行時の精神状態に影響を与えた。永山は犯行前から既に高度の精神的な偏り・神経症の兆候などを発現し、犯行時には精神病に近い精神状態だった。」「『静岡事件』の当時、永山は4つの重大事件を犯したことで罪の意識の負担に耐えられず、『刑事に追われている』という緊張感が強まったため、『早く捕まえてくれ』と言わんばかりの病的な状態に陥った」と結論付けたものだった。これは弁護人からすれば有利な証拠となったが、永山は石川鑑定の結果に強く反発し、「こんな鑑定は信用ならない」と拒絶した。しかしその後、永山は膨大な裁判資料の中でも石川鑑定の鑑定書だけを拘置所の身の回り品として死刑執行まで持ち続けており、鑑定書には自ら細かな訂正・追加の文字を書き入れていた。石川はこの鑑定の際に録音した永山の肉声テープを後にNHKに公開し、それをもとに2012年に「ETV特集 永山則夫 100時間の告白~封印された精神鑑定の真実~」がNHK教育テレビジョンで放映され、番組ディレクターの堀川惠子により『永山則夫 封印された鑑定記録』(岩波書店)として書籍化もされた。
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