「石島=観音島」説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 14:38 UTC 版)
「石島 (韓国)」の記事における「「石島=観音島」説」の解説
「観音島 (韓国)」も参照 上述した疑問点を踏まえると、勅令の「石島」と「独島」は別の島と考えるのが自然であり、少なくとも日本においては「石島=独島」説が立証されたとはいえない状況にある。勅令にある「竹島」が、鬱陵島の北東約2.2キロメートルにある竹嶼(韓国名:竹島)であることは日韓で概ね一致しているが、鬱陵島の東南東約87キロメートルも離れた「独島」を「石島」として同じ郡の管轄下に置いたとは考えにくい。また、勅令が出された1900年までに韓国で作製された地図に「独島」と比定できる島は全く記載されていない。 葛生修亮が1901年(明治34年)に書いた『韓海通漁指針』には、当時の朝鮮人は「独島」(日本名:竹島)を「ヤンコ」(西洋名「リアンクール岩礁」に由来)と呼んでいたという記述があり、「石島」とは呼ばれていない。これと同様の記事は、大韓帝国の1901年4月1日付『帝国新聞』にもあり、それには「鬱陵島東南三十海中にヤンコという島を日本で得たがその島は天下地図に載っておらずに所産は魚物だが(中略)漁夫たちを沢山傷つけるという」と記載されている。韓国人漁夫も、この日本が獲得したという「天下地図」に載っていない島を「ドクト(ソム)」ないし「ドルト(ソム)」ではなく「ヤンコ」と呼称していたことがうかがわれる。 「石島」という名称は、過去に鬱陵島周辺で使われたことはないが、勅令でいう鬱島郡の管轄する地域が「鬱陵全島と竹島石島」とされていることから、この「竹島」が鬱稜島の付属島の中で一番大きい竹嶼(韓国名:竹島)、「石島」がその隣島で二番目に大きい「観音島」(「鼠項島」「島項」)ではないかという推論が示されている。また、鬱陵島近傍の島々のうち人間が居住できる環境の島はこの「竹嶼と観音島」しかなく、勅令中の「竹島石島」は両島を大きい順に並記したとみるのが最も自然な読釈とも考えられる。日本人学者では島根大学の舩杉力修や拓殖大学の下條正男など、韓国人学者では落星台経済研究所の李栄薫が「石島=観音島」説に立っており、島根県竹島研究所でもこの見解に立っている。 韓国政府は「独島」は岩石でできているので、勅令の「石島」に相応しいとしているが、観音島もまた上部の表土以外は岩石でできている。明治期に外務省通商局が各地の領事からの報告をまとめて刊行した「通商彙纂」の1902年度版には、鬱陵島警察官駐在所の西村圭象警部が、釜山領事館の幣原喜重郎領事にあてた報告が収載されており、ここで竹嶼は「テツセミ島ハ臥達里ノ前洋ニ在リ、本邦人之ヲ竹島と俗称ス、周回三拾丁余、「タブ」女竹繁スト雖トモ飲料水ナキヲ以テ移住スルモノナシト云フ」、現在の観音島周辺は「亭石浦ノ海上ニ双燭石及び島牧ノ島峡アリ、周回二十丁、本邦人之ヲ観音島ト称シ、其岬ヲ観音岬ト云ヒ、其間ヲ観音ノ瀬戸ト呼ヘリ、又双燭石ハ三岩高ク樹立スルニヨリ三本ノ名アリ」と紹介されており、「石島」が三本立ち岩(一仙岩、二仙岩、三仙岩)や現在も観音島と称されている島を含めた総称とすれば「通商彙纂」のいう地勢にも合致している。1928年、『東亞日報』紙で「島嶼巡礼」という記事を担当した李吉用は、「四方から見れば石柱がこの島を支えており、そのなかには石仏形状の岩がいくつもあることから、この島を"観音島"と呼ぶ」と書いている。
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