「石島=独島」説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 14:38 UTC 版)
韓国政府は、勅令中の「竹島石島」のうち「竹島」を竹嶼、「石島」を独島(現在の日本名:竹島)としており、勅令は独島である石島が1900年10月の時点で正式に韓国領になった証拠であると主張している。「竹島」を竹嶼とする点は日本側の見解とほぼ一致しているが、石島に関しては独島(竹島)は鬱陵島より東南東に87キロメートルも離れており、日本ではこの説を疑問視する見解が少なくない。また、島根県は韓国政府の唱える「石島=独島」説は、竹島の島根県編入を「侵略」とするために、竹島が日本領となった1905年以前に竹島が韓国領であった事実を証明するための「牽強付会の説」であるとの視方を示している。 たとえば、2011年8月12日、韓国の金星煥外交通商部長官は定例会見の場で、「57年前の卞栄泰元外相の公式書簡を直接引用」したものとして、 独島は、日本の韓国侵略に対する最初の犠牲の地であった。解放と同時に独島は再び我が懐に戻った。独島は韓国独立の象徴である。この島に手を出す者はすべて韓国人の頑強な抵抗を覚悟せよ。日本が独島を奪おうとすることは、韓国の再侵略を意味する。 と述べた。しかし、竹島=独島が「侵略の最初の犠牲地」であり、日本が「略取」したとするためには、この島が島根県編入以前に韓国領であったことが韓国側の史料で明確に証明されなければならない 。 大邱大学校の崔長根は、鬱陵島には于山国の新羅編入の512年以前から朝鮮王朝の空島政策がなされる1403年まで千年の長きにわたって人が住んでいたことは明らかで、彼らが鬱陵島から目視できる距離にある「独島」の存在を認識し、「海を背景にして生活」していた彼らは当然直接石でできた島を視認していたわけであるから、みずからの領域に「石の島」とも呼称できるもうひとつの島(すなわち独島=竹島)を認識しており、当然、この「石の島」は人の住めない岩礁でできた島であったことを把握しただろうとして、「石の島」の意味で「トクソム」と呼称されていたのを、文献記録のために漢字表記で「石島」とし、全羅道方言からの借音表記で「独島」と命名されたと説いた。 韓国が「石島」を独島=竹島とする根拠としては、このように、「石島」が「独島」に音韻変化するのは自然であることがまず挙げられる。すなわち、朝鮮語の標準語には、「石」や「岩」を意味する「トル」という固有語があり、韓国の全羅道の南海岸の方言ではこれが「トク」ないし「ドク」となるため、韓国では、全羅道から鬱陵島に移住した人々が竹島(韓国名:独島 トクト)を「トクソム」(石の島)と呼んでいたという。そのため、大韓帝国の勅令ではこの島を「石島」と表記しているが、「独」の音読(トク、ドク)が同音であるため、後に「独島」に改められたとするものである。この、トルソム → ドクソム → 石島 → 独島 という音韻変化は「全て独島の名称として使われていた」と学校教育を通じて生徒にも教えられている。 ただ、池内敏はこのような論証について、鬱陵島の初期移住民たちがどれほど竹島=独島を知っていたのか、また、彼らによる民間呼称が「ドク(トク)ソム」ないし「ドク(トク)ト」であったことは「どのような手続きを経て明らかにされてきた事実なのだろうか」と疑問を呈している。「民間呼称」すなわち方言や発音から説明する手法については、池内は「客観的な証明としての説得力を全く有しない」と述べている。さらに彼は、韓国側の史料で独島=竹島の姿が確認できるのは、張漢相と安龍福の2例だけであり、両者にかかわる文献からは「石のような島」という認識は生じようもないこと、また、竹島=独島の特徴を「石のような島」というところに見出す見解は、実は太平洋戦争後に初めてあらわれた見解であって1900年当時には確認されていないと指摘している。 なお、「石島=独島」説を支持またはこれに同調する日本の学者には、梶村秀樹、内藤正中、塚本孝、大西俊輝がいる。
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