「石島=観音島」説をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 14:38 UTC 版)
「石島 (韓国)」の記事における「「石島=観音島」説をめぐって」の解説
「鼠項島(観音島)=石島」説については朴炳渉からの猛烈な反駁がある。1900年までの韓国の地図には現在の観音島(およびその付近)に「島項」や「鼠項島」などの表記があてるものがあり、ゆえに「観音島=石島」説は成り立たないというものであり、朴炳渉自身は「石島=独島」説に立っている。そして、石島の韓国語の音読「ソクトウ」と『韓国水産誌』付図に描かれた鼠項島の日本語の音読「ソコウトウ」が類似するという理由で石島を観音島に比定した下條正男の説を全否定している。朴炳渉によれば、鼠項島は「ソモクソム」と呼ばれていたのであり、下条のこの主張はきわめて根拠に乏しいものということになる。 しかし一方、欝陵島に2つの属島が存在するという認識は、ほかならぬ朝鮮・大韓帝国によって示されたものでもある。1882年の李奎遠の『欝陵島外図』において、李奎遠が鬱陵島の属島とみなしているのは、北澤正誠が1881年に著述した『竹島考証』で竹島とした欝陵島の東約2キロメートルの竹嶼と、欝陵島の北東、観音崎から数十メートルにある「島項(Somok)」、すなわち観音島の2島にほかならない。李奎遠が欝陵島の属島とした竹島と島項は、1883年に欝陵島に赴いた内務省書記官檜垣直枝の地図や1900年の赤塚正助の「挿図」にも踏襲され、なおかつ、1910年に大韓帝国政府が刊行した『韓国水産誌』においても竹嶼と「鼠項島(Somoku Somu)」(観音島)を鬱陵島付属の2島としている。 つまり、1900年の大韓帝国勅令第41号を前後して(1882年と1910年)、大韓帝国は欝陵島の属島をいずれも竹島と観音島の2島とみなしており、勅令第41号に限って独島(竹島)を鬱陵島の付属島のごとく扱い、それを「石島」と表記するのはきわめて不自然なことなのである。上記「皇城新聞」でも、「独島」の位置を「外洋百余里」と記している。 島根県竹島研究所は、鼠項島(ソモクソム)を伝統的な漢文の発音表記法である反切で読むと、鼠 "S(o)" の最初の母音 o と、項 "(m)oku" の最初の子音 m が除かれ、それによって「鼠項」の「"S(o)(m)oku"」 は「"Soku"=石」となって「石島」と読めることを指摘している。李奎遠がこれをなぜ「島項」と命名したかについては、彼が『欝陵島検察日記』の中で、島項を「形、臥牛のごとし」「稚竹叢あり」と表現したことから察すると、鼠項島(ソモクソム)は韓国語としては「(動物の)喉や首(項=うなじ)の島」と解読可能で、島の頂上に稚竹が生えていることから、あるいは臥せている牛の首などに見立てて「島項(Somoku)」と名付けたのではないかとしている。その島項が勅令第41号で「石島」に変化するのは、鼠項島と表記して「ソモクソム」と訓読する表記と、それを音読で表記した「石島」という表記が併存し、勅令においては音読が採用されたと考えるのが妥当というのが島根県竹島研究所の結論である。
※この「「石島=観音島」説をめぐって」の解説は、「石島 (韓国)」の解説の一部です。
「「石島=観音島」説をめぐって」を含む「石島 (韓国)」の記事については、「石島 (韓国)」の概要を参照ください。
- 「石島=観音島」説をめぐってのページへのリンク