結審・死刑判決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 12:02 UTC 版)
「永山則夫連続射殺事件」の記事における「結審・死刑判決」の解説
1979年(昭和54年)2月28日に開かれた第63回公判で改めて論告求刑が行われ、検察官は改めて被告人・永山に死刑を求刑した。同日、永山は「国選弁護人は全く俺を弁護していない」と叫び、再び退廷を命じられた。 そして同年5月4日に開かれた第66回公判で国選弁護人による最終弁論が行われ、公判は初公判から10年ぶりに結審した。第四次弁護団は同日、弁論で「犯行当時、被告人(永山)は精神病に近い精神状態で、心神喪失または心神耗弱状態だった」「永山の脳波には異常がある」とする旨を主張したが、永山は同日にも「今からこの法廷を人民法廷にする」と叫び、蓑原から退廷を命じられた。 永山の逮捕から約10年3か月後の1979年7月10日に判決公判が開かれ、東京地裁刑事第5部(蓑原茂廣裁判長 / 裁判官:豊吉彬・西修一郎)は検察官の求刑通り永山に死刑判決を言い渡した。弁護人は石川義博(東京都精神医学総合研究所職員)による精神鑑定の結果などを基に「永山は犯行時、心神喪失か心神耗弱状態だった」と主張していたが、東京地裁(1979)は永山の責任能力について「石川鑑定は永山の客観性のない供述を採用し、捜査官への客観性・合理性のある供述を採用しておらず、刑事裁判の鑑定結果として誤っており、脳波検査の方法も疑問だ。検察官側の『性格は偏っているが精神病ではない』とする鑑定結果などから、永山には(完全な)責任能力が認められる」と認定した。そして量刑理由で「永山には不幸な生い立ちや事件当時の年齢など同情すべき点もあるが、自分の目的を遂げるため善良な市民を至近距離から狙撃するなど、殺害方法は冷酷・無残だ。京都事件後には兄から自首を勧められてもそれを拒否してさらに犯行を重ねている上、自己の犯罪を『貧困・無知を生み出した社会・国家のせいだ』としており反省の態度が見らない。国民全員に強い衝撃・不安を与えた事件で、あらゆる有利な事情を考えても死刑以外にない」と結論付け、京都・函館・名古屋の各事件について死刑を選択した。 同日、永山は開廷30分後に「結論を早く言え」などと野次を飛ばし、支援グループの傍聴人2人とともに退廷させられた。永山の第四次弁護団は判決翌日(1979年7月11日)、「被告人の完全責任能力を認めたことは事実誤認」として東京高等裁判所へ控訴する手続きを取った。
※この「結審・死刑判決」の解説は、「永山則夫連続射殺事件」の解説の一部です。
「結審・死刑判決」を含む「永山則夫連続射殺事件」の記事については、「永山則夫連続射殺事件」の概要を参照ください。
- 結審・死刑判決のページへのリンク