結婚遍歴と大学職への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 09:53 UTC 版)
「マックス・シェーラー」の記事における「結婚遍歴と大学職への影響」の解説
ここからは、シェーラーの結婚遍歴を中心に人生概観を記述していく。 シェーラーは生涯のうちで3度結婚をしている。1人目の妻はアメリー・フォン・デヴィッツ、2人目はメリット・フルトヴェングラー、3人目はマリア・ショイである。このうち2人目のメリットは、指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの妹である。 1人目の妻であるアメリーとの出会いは、シェーラーが1893年の大学入学前の夏休みにチロル地方を旅行した際、ブルーニコに滞在していた時であった。アメリーはシェーラーより8歳年上の既婚女性で一児もあったが、夫はモルヒネ中毒者のため別居中であった。 彼女はベルリンに居住していたが、1894年にシェーラーもベルリン大学に移籍しており、彼女と知り合い親しくなった時期と籍を移した時期が重なる。その年の暮れに彼女は別居中の夫と離婚し、シェーラーと暮らし始めた。 シェーラーが教授資格論文を提出し、イェーナで私講師を始める1899年10月、シェーラーとアメリーは入籍した。1905年には息子のヴォルフガングも生まれ、フッサールと面識を持ったのもこの頃であった。公私ともに幸せな生活を歩むことになるかに見えたが、そう簡単にはいかなかった。このアメリーは嫉妬深い神経質な女性で、シェーラーの周りに醜聞沙汰を引き起こした。 1906年、妻アメリーが、シェーラーと某出版社の夫人との関係を疑い、大学のパーティーに出席していた夫人を罵り、平手打ちする事件を起こした。このことが醜聞沙汰となり、1907年秋には住み慣れたイェーナの地を去らざるを得なくなった。 その年には故郷であるミュンヘンに移り、フッサールが、当時ミュンヘン大学で講師をしていたテオドール・リップスと知り合いであったこともあって推薦状をしたため、シェーラーはミュンヘン大学の私講師となった。ミュンヘンでは彼の学説の継承者でもあり、生涯の親友となったヒルデブラントと知り合った。この時期にヒルデブラントと共にミュンヘン学派に参加し、現象学的探求を深めていった。 順調に見えたミュンヘンでの生活であったが、妻アメリーの嫉妬深く、疑い深い性格から、彼女との仲違いはさらに増し、とうとう2人は別居せざるを得なくなった。嫌気のさしたシェーラーは1908年のある時期、アンナという女性とイタリア旅行に出かけ、彼女を妻と偽ってホテルに宿泊した。このことを知ったアメリーが激怒し、その嫉妬深い性格からミュンヘンの某新聞社の編集者に告げ口し、夫のシェーラーが自分たち妻子のことを顧みず、ある女性と情を通じ、その費用のために借金してばかりいるなどと訴えた。編集者はこれを大学教授のデカダンスを暴き立てる好材料として受け取り、公表した。 最初の記事ではシェーラーの名前は伏せられており、彼はこの記事と妻のしたことを黙殺しようと努めた。しかし、2度目はシェーラーの実名入りで記事が記され、ミュンヘン大学側も目をつむっていられない状況に陥った。このため、シェーラーは汚名返上するために新聞社の編集者を名誉棄損で告訴した。抗議に協力しようとした友人たちもいたが、新聞社側はシェーラーがイタリア旅行をした際のホテルの宿泊帳を入手しており、これが証拠物件として提出され、シェーラーは圧倒的に不利となった。こうしてシェーラーは敗訴し、編集者は無罪となった。 この醜聞沙汰に対し、ミュンヘン大学の審査委員会は聴聞会を開き、シェーラーに警告した。この聴聞会でのやり取りの中で疑いが晴れはしたが、ことがあまりにも大きくなり過ぎ、結局大学にはいられなくなった。こうして大学の審査委員会はついに1910年4月、シェーラーに免職を命じ、ドイツ国内の大学での教授資格をも剥奪した。 一方でこの醜聞沙汰のあった頃、シェーラーはヒルデブラントの紹介により、2人目の妻となるメリットと知り合っていた。2人は1909年の夏頃にはお互いに共鳴し合い、結婚を望むまでになった。 妻アメリーは離婚手続きの延期を図ろうとして、莫大な慰謝料をシェーラーに要求した。だが結局、アメリーはシェーラーを引き留めることはできず、1912年2月に離婚が成立し、12月にメリットと結婚した。 職と教授資格を失ったシェーラーは、1911年にゲッティンゲンに移住する。そこには前年に移ったヒルデブラントがおり、当時のゲッティンゲン大学はフッサールをはじめとした現象学の中心地となっていた。ヒルデブラントはシェーラーのために講義用のホールを借り、フッサールの学生たちにもシェーラーの個人講義を聴講するように促した。 1912年、シェーラーはフッサールの指導する現象学年報の4人の編集者の一人に選ばれるが、この頃からフッサールと考えが合わなくなり、生活も安定しないためベルリンへと移住した。ここから1919年に大学職に復帰するまで、シェーラーはフリーランスの学者・ジャーナリストとして活動し、『ルサンチマンと道徳的価値判断』(後に加筆して、『道徳の構造におけるルサンチマン』と改題)をはじめとする社会病理学関係の諸論文を著し、後にこれらが『価値の転倒』に収められた。その他にも『倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』、『同情の本質と諸形式』などの代表的な著作を生み出した。
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