「清掃革命」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/07 16:10 UTC 版)
セーヌ県知事となったプベルに期待された責務のひとつに、従来の懸案であった塵芥処理問題の解決があった。パリを中心に人口200万人を超える当時のセーヌ県の市民が公道に放棄するゴミは、年間80万立方メートルを超え、その処理のために、150万フランもの巨額の公金が投入されていたのである。また、前年(1882年)にはチフスによって3,352人の命が奪われ、この年には約50年ぶりにコレラが再びパリで流行の兆しを見せていた。こうした、感染症の予防と被害拡大防止の観点からも環境問題が急務とされたのである。 プベルは、赴任1ヶ月後に知事令によりゴミ箱(金属製の箱ないしバケツ)の使用を義務づけた。これは、プベル自身がブーシュ=デュ=ローヌ県知事時代に発した知事令に倣ったもので、形状や容量はもとより、設置場所をも細かく規定したものであり、全部で11か条から成っていた。 知事令はまず、家庭や公共施設から出るゴミを公道に捨ててはならないとしたうえで、家主(建物のオーナー)や管理者は家の前の歩道や玄関先に1個ないし数個の共同のゴミ容器を設置し、ゴミ収集車が巡回してくる前に容器が出されなければならないものとした(第1条・第2条)。そして、容器の容量は最小で40リットル、最大で120リットル、重量は15キログラム以下、筒形の場合は直径55センチメートル以下、矩形の場合は幅50センチメートル×奥行き80センチメートル以下と定められ、取っ手が上方に2個1対で取り付けられていること、彩色あるいは亜鉛メッキの施されていること、および、容器側面に建物の住所が明記されていることなどとし、さらに、住人は建物に備え付けの容器以外にゴミを捨ててはならないこと、もし容器が破損していたり、ゴミに対して容器が小さすぎる場合には個人用の容器で代替ないし補完すべきことなどを定めた(第3条・第4条)。また、工事や庭・花壇等の手入れ、および商取引などにともなう、現在でいう産業廃棄物の投棄禁止と、皿、コップまたはガラス、陶器などやカキの貝殻などの分別収集を義務づけ、そのうえ、廃品回収業者がゴミ容器を公道で空けたり、商売に役立ちそうな物を探すことを禁じた(第5条-第7条)。なお、この規定が私道や私有地の中庭、袋小路などにも適用されること、違反者は法に則って訴追されること、実施・運用は労働局長の管掌事項であること、実施はパリ全市への貼り紙によって公示することなども定められた(第8条-第11条)。 同様の条例は1884年3月7日にも発布され、40-120リットルの蓋付きの3種の容器に、生ゴミ、古紙および衣類、陶器類および貝殻を分別するよう義務づけた。従来の、側溝に水を流して路上の塵芥を一掃する方式に加え、ゴミ箱を徹底的に利用する方式は大きな効果を挙げ、パリのゴミ処理問題は長足の進歩を遂げた。大人口を擁するパリでは定期的にゴミ箱を空にしていくシステムが必要であった。ゴミ収集車は、毎朝ラッパを吹奏しながら巡回し、ゴミ箱を空にしていった。プベルによってパリ市民にもたらされた新しい習慣は「ボワット・プベル」("Boîtes Poubelle")と名付けられ、フィガロ紙によって鼓舞された。不衛生都市パリの汚名は返上され、衛生的な都市として生まれ変わった。しかし、ゴミ箱方式は、分別と管理にともなう費用を節約したい家主や、生活への脅威を感じた伝統的な廃品回収業者や古着屋からの抵抗に遭遇した。なお、分別ゴミとしてカキ殻が含まれているのは、当時、安価なカキが大量に消費されていたパリの食事情を物語っている。 ゴミ箱そのものは粗悪なものとなったものの、プベルの打ち立てた原則は保持された。そして、第二次世界大戦が後わるころまでには、ゴミ箱の設置と回収をする地方公共団体が一般的となった。また、1890年に刊行された『19世紀世界大百科事典』(Grand Dictionnaire Universel du 19ème Siècle )の補足では、ゴミ箱を指す一般名詞としての "poubelle" が確立されていたのである。
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