「清和会のプリンス」
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第36回衆議院議員総選挙後には将来有望な若手が任命される衆議院議事進行係も経験した。1981年に鈴木改造内閣の運輸政務次官、1983年に自民党交通部会長、1986年には衆議院運輸委員長を務め、新幹線直行特急を公約として発表し、1992年の山形新幹線開業に奔走するなど、当初は運輸族議員としてキャリアを重ねた。 竹下・宇野総裁のもとでは総務局長を3期連続務める。1989年、リクルート事件で政界が揺れる中、リクルートと関係の深い政治家が謹慎を余儀なくされ(リクルート・パージ)、リクルートと縁が薄い鹿野は第1次海部内閣で農林水産大臣に任命され、初入閣を果たした。農林水産大臣在任中はGATTのウルグアイ・ラウンドや、日米貿易紛争の一つであった牛肉・オレンジなどの農産物輸入自由化問題に取り組み、農林水産省を代表して食糧安全保障論を展開した。退任後も総合農政調査会長や山村振興対策特別委員長を務める。 この頃から清和会において、ポスト安倍の座を争う安倍派四天王に続く世代のリーダー候補と目されるようになり、安倍晋太郎が首相就任を目前に死去した際には、派の分裂を抑えようと次の領袖候補として石原慎太郎・小泉純一郎と共に名前が挙がったこともある(最終的には四天王の1人である三塚博が就任)。 農林水産大臣退任後は、党副幹事長や党内の政治改革本部の委員として政策提言を行う。このことから、1992年の東京佐川急便事件に端を発する政治改革の動きを受けて組閣された宮澤改造内閣で総務庁長官に任命され、2度目の入閣を果たした。総務庁長官在任中は、主に許認可権の削減や規制改革に取り組み、政治改革を推進する立場から、海部俊樹前首相が会長を務める政治改革推進議員連盟のメンバーにも名を連ねた。しかし、首相の宮澤喜一は政治改革の法制化にあまり積極的でなく、結局宮澤内閣の不信任決議案が羽田派の羽田孜、小沢一郎らの造反により可決されたため、宮澤は衆議院を解散した(嘘つき解散)。自民党を離党した羽田派は新生党を結成した。第40回衆議院議員総選挙では新生党に加え、不信任案には反対したものの自民党を離党した武村正義、田中秀征、鳩山由紀夫らの新党さきがけ、細川護煕が前年に結成し支持を伸ばしていた日本新党が大勝し、宮澤自民党は過半数を割り込む。総選挙後、宮澤内閣は退陣した。 鹿野は内閣の閣僚であったことや、派閥の領袖であり宮澤の下で政務調査会長を務める三塚への配慮から、不信任案への賛成や離党の行動は取らなかったが、次第に執行部への不信感を募らせるようになった。
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