セーヌ県知事となるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/07 16:10 UTC 版)
「ウジェーヌ・プベル」の記事における「セーヌ県知事となるまで」の解説
「清掃革命」で知られるウジェーヌ・ルネ・プベルは1832年、フランス北西部ノルマンディー地方の中心都市カーンのブルジョワジーの家庭に生まれた。プベル家は、宗教改革のころからのカーンの名家で、プベルの父は地元の税務署長を務めた名望家であった。プベルは優等な成績で法学を修めたのち法律家となり、博士号の学位を得た。また、カーン大学をはじめ、グルノーブル大学(フランス語版)やトゥールーズ大学(フランス語版)などの教育機関で講師を務めた。1871年4月、プベルはフランス第三共和政のアドルフ・ティエール大統領によって、シャラント県(県庁所在地はアングレーム)の知事に任命された。共和派の重鎮で内務大臣も務めた哲学者、シャルル・ド・レミュザ(フランス語版)らの寵を受けたためであった。以来、イゼール県(県庁所在地はグルノーブル)、コルス県(フランス語版)(コルシカ島、県庁所在地はアジャクシオ)、ドゥー県(県庁所在地はブザンソン)、ブーシュ=デュ=ローヌ県(県庁所在地はマルセイユ)などの知事を歴任した。首都パリを含むセーヌ県に就任したのは1883年10月のことであり、1896年までその任にあった。
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