「はつかり」への就役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 10:57 UTC 版)
「国鉄キハ80系気動車」の記事における「「はつかり」への就役」の解説
1960年9月15日付でキハ81系先行製造車9両編成1本が落成し尾久客車区(現・尾久車両センター)に配置された。 1960年9月15日落成先行製造車編成 ← 上野 青森 → 号車1 2 3 4 5 6 7 8 9 車両番号キハ81 4 キロ80 1 キロ80 3 キサシ80 1 キハ80 10 キハ80 7 キハ80 4 キハ80 1 キハ81 1 製造会社近畿車輛 新潟鐵工所 日立製作所 川崎車輛 日本車輌 東急車輛 汽車製造 富士重工業 帝國車輛 同日には川越線で、同月18日から23日にかけて営業運転と同様に常磐線・東北本線でPR映画の撮影が行われた。同年10月14日にはお披露目を兼ねてアジア鉄道首脳者会議 (ARC=Asian Railways Conference) 参加者らを乗車させた特別列車に充当させ東京 - 日光間を往復し、国鉄の意図通り注目を集めた。さらに同月31日から11月18日にかけて残り17両が落成。同年12月10日から上野 - 青森間「はつかり」に就役した。 運転開始時は客車列車時代と同一の所要時間となるダイヤ設定であったが、上述した故障続発により客車による代走となったケースもあった。 1961年3月1日ダイヤ改正で初の気動車ダイヤが組まれ45分短縮。同年10月1日ダイヤ改正では下り18分・上り15分短縮し10時間30分を切るダイヤ設定となり、客車時代と比較して約1時間短縮する大幅なスピードアップが図られ、1966年10月1日ダイヤ改正では下りがそれまでの最短となる10時間23分運転となったほか、1963年4月20日からはキハ80形1両を増結し10両編成化。キハ82系グループとして製造されたキハ80形・キロ80形も「はつかり」編成に組成された。 「はつかり」編成 運転時刻 1960年12月10日 - 1963年4月19日 ← 上野 青森 → 1 2 3 4 5 6 7 8 9 キハ81 キロ80 キロ80 キサシ80 キハ80 キハ80 キハ80 キハ80 キハ81 1963年4月20日 - 1968年9月9日 ← 上野 青森 → 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 キハ81 キロ80 キロ80 キサシ80 キハ80 キハ80 キハ80 キハ80 キハ80 キハ81 運転時刻 1960年12月10日運転開始時:上野1230(1D はつかり)2358青森0500(2D はつかり)1630上野 1961年3月1日ダイヤ改正:上野1315(1D はつかり)2358青森0500(2D はつかり)1545上野 1961年10月1日ダイヤ改正:上野1330(1D はつかり)2355青森0505(2D はつかり)1535上野 1965年10月1日ダイヤ改正:上野1315(1D はつかり)2340青森0435(2D はつかり)1515上野 1966年10月1日ダイヤ改正:上野1315(1D はつかり)2339青森0440(2D はつかり)1515上野 東北本線全線電化完成で青森運転所(→青森車両センター→現・盛岡車両センター青森派出所)へ新製配置された583系電車への置換えによる運用移管ならびに同線経由となる1968年10月1日ダイヤ改正を前に常磐線経由のダイヤ設定はそのままで本系列の改造予定車スケジュール確保ならびに転配を理由に電車化前倒しを行い、同年9月9日から上野発下りは9001M、翌10日から青森発上りは9002Mでの運転となった。本系列運転最終となる9月8日の上野発下り1Dならびに翌9日青森発上り2Dの充当編成は、前後ヘッドマークに紅白の花による縁取りが施され、8日の尾久客車区→上野ならびに9日の上野→尾久客車区の回送運転で先頭車両に「ディーゼル特急ご苦労さんでした」のプレートを掲出し、到着後は同区で記念式典が行われた。 なお「はつかり」充当用1960年製造車は、キサシ80 1が運転終了直後の1968年9月9日付で函館運転所へ、キハ80形では同月10日付で5・6が、17日付で3・4が向日町運転所へ転出。キロ80形は1・2が大宮工場でキハ82 901・キハ80 901へ改造竣工後に向日町転出となったほか、引き続き尾久配置とされ「つばさ」1往復に充当。同年12月9日付でキサシ80 2・3は高砂工場でキシ80 901・902へ改造施工された。
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