近世における世界の一体化 大西洋貿易の影響と東ヨーロッパ

近世における世界の一体化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/27 18:04 UTC 版)

大西洋貿易の影響と東ヨーロッパ

大西洋経済圏の形成は、ヨーロッパ内部の経済構造にも大きな影響を与えた。中世以来の地中海バルト海を舞台とする商業活動に大西洋貿易が加わり、やがて貿易量や扱う産品の重要性において前者を圧倒、イタリアや南ドイツの諸都市にかわってリスボンなど大西洋に面した都市が繁栄することとなった。大西洋貿易の中心となった西ヨーロッパでは、生産の促進と雇用の増大がみられ、毛織物生産や火器、雑貨造船を始めとする工業やコムギを主とする農業が共に活性化し、その後の資本主義の展開の土台が形作られた。

その一方で、エルベ川以東の東ヨーロッパ、とくにバルト海沿岸地域では、拡大する西欧経済からの穀物や木材の需要に支えられ、領主農奴を使役して西欧向けに穀物を作らせる農場領主制(グーツヘルシャフト)が発展した。これは農奴制の創設および強化を意味しており、その結果、ムギと木材は西欧に輸出され、対価として領主たちは西欧の工業製品を購入した。東欧経済は西欧に対し従属的な位置におかれることとなるが、農場経営者である領主貴族には富がもたらされた。

毛織物生産の隆盛とオランダの勃興

アンボイナ事件(アンボイナ島における英蘭の領土を描いた銅版画(1655年))

西ヨーロッパで生産された毛織物はアメリカ大陸の植民地にも送られた。アメリカ大陸の銀は、スペインによって拓かれたアカプルコ=マニラ航路などの太平洋航路によってアジアに送られて香辛料などと交易され、その結果、毛織物工業は西ヨーロッパにおける基幹産業となっていった。15世紀末から17世紀前半にかけてのイングランドでは、牧羊地の確保のために第一次囲い込みがおこなわれ、多くの農民が土地を失った。トマス・モアはこのことを、主著『ユートピア』で「羊が人を食う」と批判した。

「太陽の沈まない国」スペインのハプスブルク帝国において、その経済の中心は毛織物生産のさかんなネーデルラントだった。イングランドやフランスにおけるカトリック勢力に対するスペインの支援は混乱をまねき、属領ネーデルラントの商人や貴族のあいだにはプロテスタントカルヴァン派)の信仰が浸透した。スペイン本国の産業は基盤が脆弱であり、アメリカで獲得した富はネーデルラントに流出していった。

対抗改革(反宗教改革)の中心だったスペインは、フェリペ2世の時代にカルヴァン派の商工業者の多いネーデルラントにカトリックを強制したため、それに反発した人びとの間に八十年戦争がおこって、しだいにスペインの支配から離反していった。ネーデルラントのカルヴァン派はゴイセン(「乞食」という意味)と呼ばれた。スペインはアルマダの戦いでイギリスにやぶれ、フランスとの間のフランス・スペイン戦争(西仏戦争)にも敗退して、17世紀には衰退に向かっていった。

北部ネーデルラント7州は、スペインとの戦争中の1581年連邦共和国として独立を宣言し、17世紀はじめに事実上の独立をはたした(オランダ)。共和政オランダはヨーロッパの経済活動の中心となり、1602年、アジア貿易に従事する諸会社を統合し、世界最初の株式会社であるオランダ東インド会社を、バタヴィアに政庁を置く総督の下でオランダ領東インドに設立し、同社を先頭にさかんに海外に進出した。

相前後して1600年にはイングランドがイギリス東インド会社を設立した。これはエリザベス女王より貿易独占権を付与された会社だったが、ここでは、17世紀半ばまでは一航海ごとに出資者に利益を分配するしくみをとった。

イングランドとオランダの両国は豊臣政権から権力を奪取した徳川家康に接近し、日本におけるスペイン、ポルトガルの権益を奪い取っていった。とりわけ、オランダは1623年モルッカ諸島のアンボイナ島でイギリス商館の日本人傭兵がオランダ商館のようすを探っていたとしてアンボイナ事件を起こし、イギリス勢力の駆逐に成功すると、キリシタン勢力の糾合による倒幕を恐れる徳川幕府に巧みに接近し、島原の乱に前後してスペイン、ポルトガルの勢力を日本から追い出すことに成功して、長崎出島において対日貿易の独占を果たした。

オランダは、アジアへの重要中継点をポルトガルからうばい、ジャワスマトラ、モルッカを植民地とし、香料貿易をさかんに行って、1619年、その拠点をジャワのバタヴィアに置いた。さらに、台湾南部のゼーランディア城1624年)、北米のニューアムステルダム1626年オランダ西インド会社の設立は1621年)、南アフリカケープ植民地1652年)、南アジアではセイロン島コロンボ1656年)などを拠点に海外に勢力を拡大した。タスマンによる南太平洋探検(1642年-1644年)もおこなわれた。

オランダの繁栄は主として、中国やインド、ヴェトナム生糸を日本に運んで銀・を入手し、それを元手に香辛料・砂糖・茶・陶磁器などのアジア産品を獲得して、アジア各地、イスラーム世界、ヨーロッパに転売したことによる。このオランダの隆盛を「覇権」と呼ぶことができるかどうかについて意見が分かれている(世界システム論#ヘゲモニー(覇権)参照)。山下範久も、ポルトガルやイギリスがヨーロッパ・アジア間の交易にこだわったのに対し、オランダの場合はアジア域内の貿易量が欧亜間のそれよりもはるかに多いことを示し、近世のヨーロッパおよびアジア帝国の完結性に穴をうがった域際的性格の強いものだったことを指摘している[3]。また1630年にはペルナンブーコ州などブラジル北東部沿岸4州なども奪い、アジアから持込んだサトウキビプランテーションを経営した。その繁栄は必ずしも長続きしなかったが、オランダが香辛料以外のアジア産品の重要性に気づいたことや、アメリカ大陸および西インド諸島でサトウキビの大農場経営を展開したことはヨーロッパ諸国を刺激し、各地の経済を大きく変えていく契機となった。

こうしてオランダは17世紀前半には商業金融海運などの分野で覇権をにぎり、バタヴィアを拠点とするアジア内貿易、ケープとセイロンに拠点を有したインド洋での中継貿易、大西洋三角貿易、バルト海貿易のいずれにおいても圧倒的な競争力をもち、自由貿易を推進していった。首都アムステルダムは、リスボンにかわって西ヨーロッパ最大の商業・金融都市として繁栄した。1630年当時、オランダが保有した商船の数は全ヨーロッパの商船の約半数に達した。なお、1634年から37年にかけては、アムステルダムでトルコ産チューリップ球根栽培の権利取引が過熱化し、球根1つに邸宅2戸分に相当する値がついたという。このことを、チューリップ・バブルと呼んでいる。

オランダの勃興は、芸術面でも新しい動きを生んだ。ルーベンスヴァン・ダイクなどフランドル派と呼ばれたバロック作家が宗教画や肖像画を多く描いたのに対し、オランダ画派に属するレンブラントは市民生活や風物を多く描いた。フェルメールピーテル・デ・ホーホもまた、オランダ黄金時代の風俗画家として知られる。

17世紀危機と主権国家体制の成立

1632年、リュッツェンの戦い(三十年戦争)

ヨーロッパ全体でみると、17世紀のヨーロッパは、16世紀の好況から転じて全般的に不況におちいった。これは17世紀の危機と称されている。気候が寒冷化して農作物の不作が続き、疫病が流行して人口も減少した。1517年マルティン・ルターが『95ヶ条の論題』を発表して以降は、カトリックプロテスタント間の宗教対立が各地で激化し、魔女狩りも横行した。このような状況のもと、ヨーロッパ各国の王は新税を課し、中央集権を強化しようとしたので、貴族などが反発し、農民一揆もかさなって混乱がつづいた。スペインの財政破綻もその一例であるが、17世紀における最大の混乱は三十年戦争だった。

三十年戦争は、神聖ローマ帝国における宗教対立と複雑な地域の事情が複合してはじまった。ほとんどヨーロッパ中の国々が介入したこの戦いによってドイツの人びとの生活はふみにじられ、その社会は荒廃した。1648年ウェストファリア条約により、神聖ローマ帝国内の各領主は主権を認められ、カルヴァン派は公認されて、オランダとスイスの独立も正式に承認された。結果としてみればハプスブルク家の完敗であり、同家はこののち、その軸足をオーストリアに移すこととなる。

16世紀以降、ヨーロッパでは、イタリア戦争ユグノー戦争フロンドの乱、三十年戦争など各地で戦争や内乱がつづいたが、その間に、列国は領土を広げ、財政と軍備を整えただけでなく、海外にも進出して覇権をきそい、植民地を広げた。

こうした弱肉強食の戦争と競争をくり返した16世紀から17世紀にかけてのヨーロッパでは、新しい国際秩序ができあがっていった。オランダのフーゴー・グロティウス国際法の確立を提唱し、それぞれ主権を主張する国々は、宗教文化の違いをこえて対等に外交交渉をくり返し、戦争のルールを定め、勢力均衡をはかることとした。この主権国家体制はウェストファリア条約に結実し、その後、現代にいたるまで国際秩序の基本となっている。


  1. ^ 村岡健次・川北稔編著 『イギリス近代史 -宗教改革から現代まで- 』 ミネルヴァ書房、1986年、11-12頁「近世社会の成立」。
  2. ^ 宇田川武久 『真説 鉄砲伝来』 平凡社<平凡社新書>、2006年。
  3. ^ 山下範久 『世界システム論で読む日本』 講談社〈講談社選書メチエ〉、2003年。
  4. ^ 浅田実 『産業革命と東インド貿易』 法律文化社、1984年、第5章「香料よりキャラコへ」。





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