ユーラシア大陸の繁栄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:36 UTC 版)
「近世における世界の一体化」の記事における「ユーラシア大陸の繁栄」の解説
詳細は「明」、「ムガル帝国」、「サファヴィー朝」、および「オスマン帝国」を参照 ユーラシア大陸の16世紀は活気に満ちた時代だった。 東アジアでは明が国際秩序の中心にあり、前世紀に比べれば翳りがみられるものの経済も繁栄し、朝鮮王国や琉球王国は明の冊封体制下で政治的安定をみていた。日本では織田信長と豊臣秀吉によって国内の統一が進展。北ユーラシアでは、イヴァン4世(雷帝)が「全ロシアのツァーリ(皇帝)」を称して、モスクワ大公国からロシア・ツァーリ国へと脱皮した。 南アジアのムガル朝、イラン高原を本拠とするサファヴィー朝、アナトリア西部に誕生したオスマン帝国は、いずれもトルコ系遊牧騎馬民の軍事力を背景にして建国し、土着化し、勢力を伸ばしたイスラーム王朝であり、それぞれ政治的に安定し、文化が栄え、その首都は繁栄した。そこにはまた、それぞれの豊かな物産を求めて多くの外国商人も訪れていた。なかでもオスマン帝国は1453年、千年以上続き難攻不落とされた東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(イスタンブール)を陥落させたのち急速に領土を拡大した。スレイマン1世治下の1529年にはハンガリー平原をこえてウィーンを包囲し、その晩年には西アジア、北アフリカ、バルカン半島にまたがる大帝国となって、ヨーロッパのキリスト教世界に恐怖をあたえた。その一方、スレイマン1世は1536年にフランスのフランソワ1世に恩恵としてカピチュレーションを与えた。オスマン帝国は1579年、エリザベス1世治下のイングランドにもカピチュレーションを与えている。 ルネサンスの時代をむかえていたヨーロッパは、繁栄するアジアに豊かな物産を求め、地中海域の東半を支配したオスマン帝国の領土をさけて大西洋に新しい航路を求めた。
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