西アジア、北アフリカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 10:19 UTC 版)
イスラーム帝国のウマイヤ朝は、ビザンツ帝国とサーサーン朝ペルシアから領土を獲得し、それぞれの金本位制と銀本位制を引き継いだ。当初はビザンツのソリドゥス金貨とフォリス銅貨、サーサーン朝のドラクマ銀貨が模倣され、肖像が打刻されていた。アブドゥルマリクの時代に貨幣制度が整えられ、肖像は消えてイスラーム世界の貨幣のデザインが確立されてゆき、金貨のディナール、銀貨のディルハム、銅貨のファルス (貨幣)(英語版)が定められた。金貨はビザンツのノミスマにならいつつ、独自の重量を採用した。銀貨はサーサーン朝のディレムにならって発行し、銅貨は小額取引用とされ、金貨と銀貨はダマスクスの造幣所で発行されて地方へ広まった。イスラーム経済では等価・等量の交換を重視することから、金貨や銀貨の質が安定しており、ヨーロッパでも信用の高い貨幣として扱われた。アッバース朝では金銀複本位制となり、征服地に退蔵されていた金の利用、サハラ交易で運ばれる西スーダンの金、金鉱での新たな金の獲得、そして技術の向上によって金貨の造幣が活発となり、9世紀から金貨が普及した。金貨は貿易の決済として重要とされ、長期間にわたって質が保たれ、銀貨との交換比率が安定していた。アッバース朝のもとで地中海やインド洋の商業は急増したが、次第に金銀の供給が不足したため、小切手、為替手形、銀行が普及した。サッラーフ(şarrāf)と呼ばれる両替商は、小規模な業者はスークで両替や旧貨と新貨の交換を行い、大規模になると銀行業として王朝やマムルークに融資を行った。私有財産を寄進するワクフ制度にも貨幣が使われるようになり、現金を寄進して利子収入を得る行為も行われた。ワクフの管財人は抵当や保証人をつけて貸した。 10世紀のファーティマ朝時代に銀不足が深刻化し、12世紀のアイユーブ朝時代には金貨の重量基準が変更され、かわって銀貨が中心となる。イスラーム世界における金銀の不足は、15世紀のエジプトでファルス銅貨のインフレーションと穀物価格の高騰などの経済危機につながる。銅貨はファーティマ朝時代には地方当局が発行できるようになっていたため重量が安定せず、アイユーブ朝になると金銀貨との交換比率が定められ、貨幣制度が混乱した。さらにファルス銅貨とは別にディルハム銅貨という計算用の貨幣が導入されると貨幣相場の変動が激しくなり、実際にファルスを用いていた民衆に混乱をもたらした。 オスマン帝国はオルハンの時代に、ビザンツ帝国の銀貨を参考にアクチェ(英語版)銀貨を発行した。そして支配領域にティマール制(英語版)を定めて、各地の騎士に徴税権を与える代わりに軍事義務を課した。ティマール制とは2万アクチェ以下の小額の徴税権がティマールと呼ばれたことに由来しており、高額の徴税権はゼアーメト(zeamet、2万アクチェ以上10万アクチェ未満)やハス(has、10万アクチェ以上)と呼ばれた。ティマールの額は戦場での働きによって増減したため、戦場には書記が同行して軍功を記録して証明書を発行した。
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