西アジアおよび北アフリカの感染爆発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 02:23 UTC 版)
「黒死病」の記事における「西アジアおよび北アフリカの感染爆発」の解説
黒死病はパンデミック期に中東や北アフリカの様々な地域を襲撃し、経済構造や社会構造に深刻な過疎化と恒久的な変化をもたらした。感染済みのげっ歯類が新たなげっ歯類を感染させることで病気は地域全体に蔓延し、ロシア南部からも入ってきた。 1347年秋までに疫病はエジプトのアレクサンドリアに到達し、同時代の証言によると、コンスタンティノープルから海路で奴隷を運ぶただ一隻の商船から伝染した。 1348年の晩夏までに、マムルーク朝の首都でイスラム世界の文化中心地カイロに到達した。バフリー・マムルーク朝のスルタンであるナースィル・ハサンは疎開し、60万人の住民の3分の1以上が死亡した。中世のカイロには病院(13世紀後半カラウン複合施設のビマリスタン)があったにもかかわらず、死体でナイル川が埋め尽くされた。歴史家アル=マクリーズィーは墓掘りや葬儀執行の仕事が溢れるほどになったと説明し、次の1世紀半にわたって疫病がカイロで50回以上繰り返された。 同年4月までにこの病気はガザへと東に向かった。7月までにダマスカスに到達し、10月にはアレッポで疫病が勃発した。同年、 現代のレバノン、シリア、イスラエル、パレスチナの領土にあるアシュケロン、アッコ、エルサレム、シドン、ホムスの全都市が感染した。1348-1349年にこの病気はアンティオキアにまで到達した。同市の住民は北に疎開したが、彼らの大半が移動中に死んでいく結果となった。 2年以内に、このペストはアラビアから北アフリカにわたるイスラム世界全体で蔓延した[要ページ番号]。このパンデミックはアフリカ海岸に沿ってアレクサンドリアから西に蔓延し、1348年4月にはチュニスがシチリアからの船で感染した。その後チュニスは、モロッコからの軍隊による攻撃を受けた。この軍隊が1348年に引き上げるとモロッコにその感染をもたらした。なお、この流行感染はアンダルスにあるアルメリアのイスラム都市から始まった可能性がある。 メッカはハッジを行う巡礼者によって1348年に感染した。1351年か1352年に、イエメンのラスール朝スルタンであるアル=ムジャヒド・アリがエジプトのマムルーク捕虜から解放され、彼の帰国と共にペストが持ち込まれた。1348年の記録は、モースル市が大規模な流行感染に見舞われ、バグダッド市がこの病気の第二波を経験したことを示している[要出典]。
※この「西アジアおよび北アフリカの感染爆発」の解説は、「黒死病」の解説の一部です。
「西アジアおよび北アフリカの感染爆発」を含む「黒死病」の記事については、「黒死病」の概要を参照ください。
- 西アジアおよび北アフリカの感染爆発のページへのリンク