聖徳太子 ゆかりの神社

聖徳太子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 01:08 UTC 版)

ゆかりの神社

敬神の詔を推古15年(607年)に出したことからわかるように、聖徳太子は神道の神をも厚く祀った。四天王寺境内には鳥居があるほか、伊勢遥拝所・熊野権現遥拝所、守屋祠がある。

  • 四天王寺七宮 - 聖徳太子創建。小儀神社(四天王寺東門前)、土塔神社(同南門前)、河堀稲生神社(大阪市天王寺区大道)、久保神社(同勝山)、大江神社(同夕陽丘町)、堀越神社(同茶臼山町)、上之宮神社(同上之宮町
  • 玉造稲荷神社(大阪市中央区玉造) - 聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。
  • 龍田神社(奈良県生駒郡斑鳩町龍田) - 聖徳太子が法隆寺の建設地を探していたとき、白髪の老人の姿をした龍田大明神が「斑鳩の里が仏法興隆の地である。私はその守護神となる」と託宣したので、その地を選び、鎮守社とした。
  • 龍田大社(奈良県生駒郡三郷町) − 聖徳太子が法隆寺建立の際、龍田大社に祈願し、落慶の際に法隆寺の守り神として龍田大社の御分霊をお祀りした。
  • 御影の綱敷天満宮(兵庫県神戸市東灘区御影) - 四天王寺創建の際、六甲山御影石を切り出し、その際、蒼稲魂神を合せ祠る。その御神体と、聖徳太子の所持していたと駒角が現存する。
  • 竜王宮(滋賀県竜王町鏡山) - 山頂付近に聖徳太子26歳の時、自ら観音像を彫られ創建された雲冠寺(うんかんじ)跡がある。雨の神・水の神ともいわれる八大竜王が龍王宮として祀られ、寺院の守護をした。
  • 飽波神社(生駒郡安堵町) - 聖徳太子が牛頭天王を祀ったのが創建と伝えられ、飽波宮のあった場所と比定する説もある。主祭神素戔嗚尊
  • 森之宮神社(鵲森宮〈かささぎもりみや〉、大阪市中央区森之宮) - 用明天皇間人皇后を祀る。聖徳太子創建。
  • 福王神社(三重県三重郡菰野町田口) - 聖徳太子の命により毘沙門天が安置され、国の鎮護と伊勢神宮の守りとしたと伝わる。
  • 御沢神社(おさわじんじゃ、滋賀県東近江市上平木町) - 主祭神は市杵嶋姫命、弁財天女、聖徳太子、八大龍王。聖徳太子が蘇我馬子に命じてこの一帯を開墾したとき、用水の溜池として清水(きよみず)池、白水(はくすい)池、泥水(にごり)池をつくり、神社を創建したと伝わる。
  • 白龍大神天宮塚(兵庫県宝塚市) - 円錐形の山容をした天宮塚は中山連山の一つで、聖徳太子御修行遺跡。聖徳太子創建の中山寺と関わる。
  • 大歳神社(和歌山県紀の川市) - 朝敵退治の誓願のため軍を率い、この地に着陣して年越しをする。その跡地を大歳神社と号し祀るようになる。

注釈

  1. ^ 「天寿国繡帳」には「等巳刀弥弥乃弥己等(とよとみみのみこと)」、「元興寺塔露盤銘」に「有麻移刀等已刀弥弥乃弥己等(うまやとのとよさとみみのみこと)」、元興寺の釈迦造像記には「等与刀弥弥大王(とよとみみのおおきみ)」とあるため、『新古典文学大成』では「豊聡耳」の誤記であるとしている。石井公成は命名の根拠という説がある『法華経』に「其耳聡利」という文句があり、「耳聡」の用法も有り得るのではないかとしている2012
  2. ^ この文書は醍醐寺が所蔵する書物で、聖徳太子本人が書いたとされる史料ではあるが、奥付きには天平19年(747年)の成立とある。このため、実際の成立年代には論争があり、孝徳天皇期から平安時代までの幅広い期間で諸説が検討されている。[10]
  3. ^ 『宋書』巻十七志第七禮四「皇太子入住上宮」
  4. ^ 『南斉書』卷二十一列傳第二「太子與竟陵王子良俱好釋氏、立六疾館以養窮民。風韻甚和而性頗奢麗、宮內殿堂、皆雕飾精綺、過於上宮。」
  5. ^ 懐風藻序「逮乎聖徳太子。設爵分官。肇制礼儀。然而専崇釈教。未遑篇章。」
  6. ^ 荒木敏夫は皇太子制を飛鳥浄御原令での成立として厩戸皇子の立太子に疑問を呈する(『日本古代の皇太子』吉川弘文館、1985年[要ページ番号])が、河内祥輔は皇太子の称の有無とは別に、厩戸皇子の父・用明天皇は非皇族(蘇我氏)を母に持った皇族であったため、敏達天皇の后からの所生である竹田皇子の成人までの「中継ぎ」の天皇の地位に留まり、本来ならば厩戸皇子ら子孫への直系継承権を有していなかった。だが、竹田皇子の急な死去により竹田皇子の母后(推古天皇)が自己に最も近い皇族であった甥の厩戸皇子を新たな後継者とするために、自ら即位して厩戸皇子を後継者に指名(後世の立太子に相当)する必要があったとする。これによって用明天皇系である厩戸皇子(聖徳太子)は直系(敏達天皇系)に準じる者として皇位継承権を得たが、指名者である推古天皇が死去するまでその地位に留まらざるを得なくなった(結果として即位することなく死去した)とする[20]
  7. ^ 開皇20年(600年)『隋書』に、國の「王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩彌」から初めて遣隋使がきた記事がある。この使者は「王は天を兄とし、日を弟とする」即ち天・王・日は三兄弟であると述べ、高祖は「甚だ義理なし」と応じたという。なお『日本書紀』には同記事はない。「倭」を誤って「」と表記したとする説が有力である。
  8. ^ 日本書紀では十七条憲法の直後の記事に「推古天皇十二年(604年)秋九月 改朝礼 因以詔之曰 凡出入宮門 以両手押地 両脚跪之 越梱則立行」とある。『日本書紀』は、十七条憲法と共に、役人は宮門を出る時、宮門に入る時は土下座、四つんばいになるように命じられたとしている。
  9. ^ 日本書紀は隋を大唐国としている。また、『日本書紀』には国書の内容(「日出る処…」)の記述はない。
  10. ^ 『日本書紀』には遣隋使という文字はない。隋という国名も618年高句麗が隋の捕虜を献上した記事に登場するのみである。『隋書』によれば、遣使の国書は「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す(「聞海西菩薩天子重興佛法」「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)」との文言があり、没落を表す日没する処という表現は隋の煬帝開皇11年(591年)に菩薩戒により総持菩薩となったのは父の文帝であり、自分の即位を知らなかったことも煬帝を怒らせた)を「無礼である、二度と取り次がせるな」(「帝覧之不悦 謂鴻臚卿曰 蠻夷書有無禮者 勿復以聞」)と大いに不快にさせた。なお太子の使った「日出處」「日沒處」は『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書『大智度論』に「日出処是東方 日没処是西方」とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語であるとされる。また、「天子」という表現も天子とは天帝の子である皇帝を意味するとしてきた隋側には許容できないものであった。この国書は國が隋との対等の外交を目指したものであり、冊封体制に入らないことを宣言したものである。当時、隋は高句麗との戦争を準備しており、背後の國と結ぶ必要があった。
  11. ^ 皇帝が「倭皇」の文字を用いるとは常識的には考え難く、実際は「倭王」であったと見る意見が多いが、隋と並ぶ天子を称する非常識な相手への返書であり、高句麗の背後にあることから倭王の無礼を受忍し、倭への冊封ではあるが「皇帝」の「皇」を与えたとも考えられる。「王」を改竄して「倭」を改竄しないのも不自然であり、隋から「皇」を与えられて「天皇」を名乗ったように改竄するのは皇国史観に反する改竄になる。『隋書』は倭王に会った時と帰国する前の裴清の言葉を記すが、国書を載せていない。
  12. ^ 『隋書』にこの記述はない。
  13. ^ どの時代から「天皇」という語が使用されているかについては諸説ある。『日本書紀』の古訓では「倭皇」「東天皇」をどちらも「やまとのすめらみこと」と読んでいる。
  14. ^ 田村圓澄は「その太子像は荒唐無稽な異聞奇瑞(きずい)で満たされている」とする。作者を藤原兼輔とする説が有力であったが、今日では疑問視されている(『日本大百科全書』(小学館[要ページ番号]) )。
  15. ^ 久米邦武は、学僧が日本に持ち帰った景教(ネストリウス派)の知識が太子誕生説話に付会されたのだろうと推定している。佐伯好朗は、1908年に論文「太秦を論ず」において聖徳太子と関係の深い秦氏と景教とユダヤ人の関わりについて論じ景教博士と呼ばれた。さらに空想をたくましくして秦氏と古代イスラエル民族と直接に関連するという日ユ同祖論を唱える極端な仮説(手島郁郎太秦の神-八幡信仰とキリスト景教』(1971年[要ページ番号])が代表例)も存在する。
  16. ^ 妙法蓮華経法師功徳品(ほっしくどくほん)は「千二百の耳の功徳」について説いている。(爾時仏告常精進菩薩摩訶薩。若善男子善女人。受持是法華経。若讀若誦若解説若書寫。是人当得八百眼功徳。千二百耳功徳。八百鼻功徳。千二百舌功徳。八百身功徳。千二百意功徳。以是功徳荘厳六根皆令清浄。是善男子善女人。父母所生清浄肉眼。見於三千大千世界。内外所有山林河海。下至阿鼻地獄上至有頂。亦見其中一切衆生。及業因縁果報生処。悉見悉知。爾時世尊。欲重宣此義。而説偈言。)(無数種人聲。聞悉能解了。)
  17. ^ 万葉集(『萬葉集』巻三 415)では片岡山ではなく龍田山とある。
  18. ^ 拾遺和歌集巻20哀傷1350 この歌と返し歌をもって『拾遺和歌集』最終巻は終わる。『源氏物語』 第20帖 朝顔(あさかほ)にて、光源氏が老婆となった今も衰えぬ源典侍にかけた言葉「その世のことは みな昔語りになりゆくを はるかに思ひ出づるも 心細きに うれしき御声かな 親なしに臥せる旅人と 育みたまへかし(あのころのことは皆昔話になって、思い出してさえあまりに今と遠くて心細くなるばかりなのですが、うれしい方がおいでになりましたね。『親なしに臥(ふ)せる旅人』と思ってください。与謝野晶子訳)」はこの歌をふまえたものである。返し歌は「いかるがや富緒河の(とみの小川の)絶えばこそ我が大君の御名をわすれめ」
  19. ^ 『日本書紀』編纂当時は、死穢・触穢を忌避する観念、風習は未発達であると考えられるが(『日本書紀』皇極天皇元年五月乙亥日条参照)、疫病は恐れられていた。『荘子』大宗師篇第六に「真人」について詳説する部分がある。また、遺体の消滅は仙人尸解仙(しかいせん)にも類似し、『新約聖書』も想起させる。大山誠一は、『日本書紀』の推古紀と道教に関心が深かった長屋王や道慈との関係について仮説を提示している[要出典]
  20. ^ 叡福寺の「聖徳太子絵伝(しょうとくたいしえでん)」七幅(南北朝-室町時代の制作)は2008年に修復が完成した。
  21. ^ 徒然草』第六段に次の一文がある。「聖徳太子の御墓(みはか)を、かねて築(つ)かせ給(たま)ひける時も、「ここをきれ、かしこを断て。子孫あらせじと思ふなり。」と侍(はべ)りけるとかや。」
  22. ^ 1675年延宝3年)、聖徳太子の憲法には「通蒙憲法」「政家憲法」「儒士憲法」「釈氏憲法」「神職憲法」の五憲法が存在し、「通蒙憲法」が十七条憲法であると説く『聖徳太子五憲法』と称する書が現れた。『聖徳太子五憲法』は1679年延宝7年)に現れた偽書『先代旧事本紀大成経』巻七十「憲法本紀」と同じ内容である。
  23. ^ 原文:「佛智不思議の誓願を 聖德皇のめぐみにて 正定聚に歸入して 補處の彌勒のごとくなり」
  24. ^ 原文:和國の敎主聖德皇 廣大恩德謝しがたし 一心に歸命したてまつり 奉讚不退ならしめよ
  25. ^ 和国の教主とは、日本に生まれて正法を興した主。釈尊を教主世尊と崇めるのに準じて、太子を日本の教主と尊称する。(名畑應順親鸞和讃集』p.198)
  26. ^ 「それに國書の如きも隋書に載れる 日出處天子致書日沒處天子無恙云々 の如きは、其の語氣から察するに、恐らく太子自ら筆を執られたものであつたらしく、全然對等の詞を用ひられたので、隋の煬帝の如き、久しく分離した支那を統一したと謂ふ自尊心を持つて居る天子をして、從來に例の無い無禮な國書だと驚かしめたのである。」(「聖徳太子」『内藤湖南全集第九巻』(筑摩書房、1976年[要ページ番号]))
  27. ^ 関晃は偽作説の根拠はあまり有力とはいえない」とする。『世界大百科事典第二版』平凡社[要ページ番号]
  28. ^ 高森明勅國學院大學講師)は「大山氏の方法論の致命的な欠陥は、「日本書紀以前に確実な史料がなければ、日本書紀に描かれた人物であっても虚構だ」、と言っていること」と述べている(「歴史教科書10の争点」レポート 高森明勅「日本の国柄をつくった聖徳太子」[要ページ番号] )。
  29. ^ 安本美典は次のように述べている。「失敗をくり返してきた19世紀的文献批判学に対して、海外では、すでに多くの再批判がおこなわれ、たとえば、『数理哲学の歴史』の著者のG・マルチンは、「自分自身に対して無批判な批判」と鋭く論評してる。しかし、日本では、いまもなお、津田左右吉流の擬古派的な主張をする学者が少なくない。擬古派的な考え方は、くりかえし、事実によって粉砕されてきたが、日本では、第二次世界大戦中の『古事記』『日本書紀』をそのまま信ずべしとする教育に対する反動から、擬古的な考えがいまだに強く、結果的に世界の趨勢からいちじるしくたちおくれた議論が、あいかわらず強調される傾向が続いている。「聖徳太子は実在しなかった」「大化の改新は偽りである」など、擬古派の立場でさまざまな本が出版される背景には、日本のこのような事情があるのである。」(邪馬台国の会 講演会記録第249回聖徳太子は実在した (2006.9.24[要ページ番号]))
  30. ^ また、用明、崇峻、推古の王朝とされる時期には蘇我馬子の王権が存在したとする仮説(蘇我王権説)を提示している
  31. ^ 三浦佑之(立正大学教授)は大山の聖徳太子論に賛成している[1]
  32. ^ 「奈良時代の前半には上宮太子を「聖徳」と称するのは死後に与えるとする理解があり、さらに、慶雲3(706)年以前に「聖徳皇」と呼ばれていたとする金石文もある。加えて『古事記』には没後の名前と考えられる「豊聡耳」の称号、および「王」号ではなく後に即位した王子にのみ与えられる「命」表記を含む「上宮の厩戸豊聡耳命」の記載があり、遅くとも『日本書紀』成立以前の天武朝までには偉人化が開始されていた」と指摘した[要出典]
  33. ^ 和田は、聖徳太子が日本書紀の編纂段階で理想化されたことは多くの人が認めており、厩戸王と(脚色が加わった)聖徳太子を分けて考えるべきとする指摘は重要としながらも、そのことが「聖徳太子虚構説」や「蘇我王権説」につながるわけではないとする。『日本経済新聞』2004年1月10日
  34. ^ 「後世に造形され、肥大化した聖徳太子がいなかったという点では大山説に反対しない。厩戸王の実像をどう考えるかでは見解が違う。歴史物語の研究によれば、全くのゼロから記事がつくられた例がない。素材となった記録・記事が何であるかは今後の課題だが、皆無とは考えにくい」とする(毎日新聞東京夕刊2007年6月4日)。
  35. ^ 用明天皇の子として名前(上宮之厩戸豊聰耳命)が記されている。
  36. ^ 「碑文の古きものは、伊豫道後温泉の碑、山城宇治橋の碑、船首王の墓誌等がその最なるもの」「道後温泉碑 推古天皇の四年に建てたもので碑は今日亡びてない。文は『續日本紀』に引く所にして、もと『伊豫風土記』に載せてあつた」。牧野謙次郎 述/三浦叶 筆記『日本漢學史』(世界堂書店、 1938年[要ページ番号]
  37. ^ 「法王大王」は聖徳太子を指す。万葉集巻三239 柿本人麻呂の詠める「八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而…」のように大王は皇子に使用される例がある。山部赤人が伊豫温泉(道後温泉)を訪れて詠んだ歌(『万葉集』巻三 322)について、道後湯岡碑銘文または伊予国風土記の内容を踏まえたものとする説がある[要出典]
  38. ^ 小林よしのりは自身の著書『天皇論』にて「聖徳太子」という諡号をカッコ括りの記述にするのは皇室を蔑ろにするものと批判している(120頁にて)
  39. ^ 「厩戸王」は大山説でも使用されているが、史料には見られない。日本書紀は「厩戸皇子」。日本書籍の教科書を執筆した吉村武彦は「皇子を表記するに当たっては生存中の名前を使うのが一般的。『聖徳太子の時代』という表現にも違和感があり、『蘇我氏と厩戸皇子が政治をおこなう』と表記した」とする(2004年/平成16年1月10日日本経済新聞)。
  40. ^ ただし、歴史記述の際に、君主や皇族について、没後に定められた諡や追号を使用するのはよくあることである。「推古天皇」「後白河天皇」「武帝」など。また、平安時代以降は後白河天皇を後白河院と院号で呼ぶのが一般的であったし、長慶天皇仲恭天皇のように同時代には即位自体が公認されず、没後数百年を経て政治的に追認された例もある。また、当時の正式名称ではない呼称を、後日の区別のために用いる例もあり、中国の王朝名の「前漢」「後漢」「蜀漢」「南漢」はみな国号は「漢」である

出典

  1. ^ 聖徳太子』 - コトバンク
  2. ^ 聖徳太子1400年忌「和」の願い今に”. 日本経済新聞 (2021年1月2日). 2021年2月7日閲覧。
  3. ^ 厩戸皇子 ウマヤドノオウジ
  4. ^ 文部科学省検定教科書『詳説 日本史』山川出版社
  5. ^ a b c 石井公成 2018, p. 2.
  6. ^ 榊原史子『聖徳太子信仰とは何か勉誠出版、2021年
  7. ^ a b c 宮本要太郎 2000, p. 61.
  8. ^ a b 石井公成 2012, p. 114.
  9. ^ a b 石井公成 2012, p. 111.
  10. ^ 吉田一彦「元興寺伽藍縁起并流記資財帳の研究」『名古屋市立大学人文社会学部研究紀要』第15巻、筑波大学哲学・思想学系、2003年、346-307頁。 
  11. ^ a b 前之園亮一 2016, p. 1.
  12. ^ 前之園亮一 2016, p. 2.
  13. ^ a b 石井公成 2012, p. 112-113.
  14. ^ 岡部毅史「[梁簡文帝立太子前夜--南朝皇太子の歴史的位置に関する一考察-- https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/118/1/118_KJ00005181508/_pdf/-char/ja]」(『史学雑誌』118編1号、2009年1月)
  15. ^ 石井公成「「上宮」という名の由来: 岡部毅史「梁簡文帝立太子前夜--南朝皇太子の歴史的位置に関する一考察-- [2]」聖徳太子研究の最前線(2023年12月6日閲覧)
  16. ^ 廣岡孝信「推古朝の『片岡』・馬見丘陵と王権の基盤--奈良県馬見丘陵の飛鳥時代--」菅谷文則編『王権と武器と信仰』(同成社、2008年)
  17. ^ 古江亮仁「豊聡耳命の御名由来譚について」(『仏教史研究』1号、1949年)
  18. ^ 巻二貞観元年(859年)五月十九日甲戌条、巻八貞観6年(864年)正月十四日辛丑条、巻卅八元慶4年(880年)十月廿日庚子条など。
  19. ^ 『日本古典文学大系 風土記』(岩波書店、1977年[要ページ番号])、間壁忠彦・ 間壁葭子『石宝殿―古代史の謎を解く』(神戸新聞総合出版センター、 1996年[要ページ番号]
  20. ^ 『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、1986年)pp.49-54
  21. ^ 酒井芳司「九州地方の軍事と交通」(館野和己・出田和久編『日本古代の交通・流通・情報 1 制度と実態』吉川弘文館、2016年)ISBN 978-4-642-01728-2 pp.236-238
  22. ^ 浅井建爾『道と路がわかる辞典』(初版)日本実業出版社、2001年11月10日、86頁。ISBN 4-534-03315-X 
  23. ^ 倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』(中央公論新社、2015年)
  24. ^ 南無仏太子立像 - 奈良国立博物館、2020年12月4日閲覧。
  25. ^ 石井公成 中世の聖徳太子のイメージは「未来記」を残した予言者:小峯和明『予言文学の語る中世』 - 聖徳太子研究の最前線
  26. ^ 王勇『聖徳太子時空超越―歴史を動かした慧思後身説』(大修館書店、1994年)[要ページ番号]
  27. ^ 一色八郎『箸の文化史 世界の箸・日本の箸』(御茶の水書房、1998年)p.54
  28. ^ 境野黄洋『聖徳太子伝』(丙午出版社、1917年)p.128
  29. ^ 「聖徳太子墓はやや小さめ 宮内庁が研究者に公開」 共同通信 2002年11月14日[要ページ番号]、「「聖徳太子墓」を初めて研究者に公開 宮内庁」 asahi.com 2002年11月15日
  30. ^ 『日本大百科全書』(小学館)聖徳太子の項
  31. ^ 宮城顗『和讃に学ぶ:正像末和讃』p.222
  32. ^ 能門伊都子「特定の職業・人に信仰される神々」『大法輪』第72巻1号、法藏館2005年(平成17年[要ページ番号]
  33. ^ 名畑應順『親鸞和讃集』p.313
  34. ^ 名畑應順『親鸞和讃集』p.194
  35. ^ 宮城顗『和讃に学ぶ:正像末和讃』pp.188-189
  36. ^ a b c d 石井公成 2012, p. 132.
  37. ^ a b 石井公成 2012, p. 133.
  38. ^ a b c 石井公成 2012, p. 131.
  39. ^ 世界大百科事典』第二版(平凡社[要ページ番号]
  40. ^ 『日本大百科全書』小学館[要ページ番号]
  41. ^ “「安倍政権は天文学的な金額の利権を求めて紙幣の刷新を決めた」Twitterでデマ広がる(篠原修司)”. Yahoo!ニュース. (2019年4月10日). https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/4c512531c0db482d08966441797ea4f6f52a3b0e 2020年12月1日閲覧。 
  42. ^ 栗田, 元次 編『綜合日本史插画解説』中文館書店、1934年、20頁。doi:10.11501/1055073https://dl.ndl.go.jp/pid/1055073/1/29 
  43. ^ 『久米邦武歴史著作集 第1巻 聖徳太子の研究』吉川弘文館 1988年[要ページ番号]
  44. ^ 1930年の『日本上代史研究』による。津田左右吉『日本古典の研究』(岩波書店、1972年[要ページ番号]
  45. ^ 井上光貞『飛鳥の朝廷』(講談社学術文庫、 1974年[要ページ番号])、坂本太郎『聖徳太子』(吉川弘文館、 1979年[要ページ番号]
  46. ^ 森博達『日本書紀の謎を解く—述作者は誰か』(中公新書、 1999年[要ページ番号]
  47. ^ a b 公開講演『聖徳太子は実在するか』(2009年9月27日時点のアーカイブ
  48. ^ ほか『聖徳太子と日本人』(風媒社、2001年)。大山誠一「聖徳太子」研究の再検討(上・下)(『弘前大学國史研究』100、1996年3月、10月)
  49. ^ 『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房、 2001年[要ページ番号]
  50. ^ 岡田英弘『日本史の誕生』(筑摩書房、2008年[要ページ番号])、宮脇淳子『淳子先生の歴史講座―こんなの常識!日本誕生①つくられた聖徳太子』(WiLL2009年7月号別冊 『歴史通』NO.2[要ページ番号]
  51. ^ 仁藤敦史 「聖徳太子は実在したのか」『中学校 歴史のしおり』(帝国書院、 2005年9月)[要ページ番号]
  52. ^ 遠山美都男『天皇と日本の起源』(講談社、 2003年)[要ページ番号])および遠山美都男『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』(2000年[要ページ番号]
  53. ^ 曽根正人『聖徳太子と飛鳥仏教』(2007年[要ページ番号]
  54. ^ 文藝春秋』2013年11月号、pp.256-257
  55. ^ 石井公成「聖徳太子研究の最前線」(2021年8月19日閲覧)
  56. ^ 森博達『日本書紀の謎を解く—述作者は誰か』(中公新書 1999年)、謎解き日本史(2007年4月23日時点のアーカイブ
  57. ^ 藤枝晃「勝鬘経義疏」『聖徳太子集』(岩波書店 1975年[要ページ番号]
  58. ^ a b 『天孫降臨の夢』(NHK出版、2009年[要ページ番号]
  59. ^ 王勇「東アジアにおける「三経義疏」の流伝」(『中国の日本研究』第2号、浙江大学日本文化研究所、 2000年[要ページ番号]
  60. ^ 『大日本仏教全書』(鈴木学術財団[要ページ番号])、花山信勝『法華義疏の研究―聖徳太子御製』(東洋文庫[要ページ番号]
  61. ^ 『日本思想大系2 聖徳太子集』(岩波書店 1975年[要ページ番号]
  62. ^ 大橋一章『天寿国繡帳の研究』(吉川弘文館 1995年[要ページ番号]
  63. ^ 義江明子「天寿國繡帳銘系譜の一考察」『日本史研究』325号、 1989年[要ページ番号]
  64. ^ 福山敏男「法隆寺金石文に関する二、三の問題 金堂薬師像・釋迦像・同寺小釋迦像の光背銘」(夢殿第13册 法隆寺の銘文 1935年[要ページ番号]
  65. ^ 志水正司『古代寺院の成立』(六興出版、1979年[要ページ番号]
  66. ^ 外部リンク伊予湯岡碑文の考察。伊予国風土記逸文による道後湯岡碑銘文(駢儷体の詩文)日本漢學史 道後温泉碑[リンク切れ]
  67. ^ 荊木美行『風土記逸文の文献学的研究』(皇學館出版部、 2002年[要ページ番号]
  68. ^ 大橋一章「法起寺の発願と造営」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』49巻(2003年)pp.91-701, NCID AA11910228, 早稲田大学大学院文学研究科
  69. ^ 直木孝次郎「万葉集と木簡に見える「皇」」(『東アジアの古代文化』108号、大和書房、 2001年[要ページ番号]
  70. ^ 『日本経済新聞』2004年1月10日※記事名不明
  71. ^ 『日本古典文学大系 風土記』(岩波書店 1977年[要ページ番号])、間壁忠彦・ 間壁葭子『石宝殿―古代史の謎を解く』(神戸新聞総合出版センター、 1996年[要ページ番号]
  72. ^ “聖徳太子は実在せず? 高校日本史教科書に「疑う」記述”. 朝日新聞. (2013年3月27日). オリジナルの2013年3月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130327130342/http://www.asahi.com/national/update/0327/TKY201303270082.html 2015年8月31日閲覧。 
  73. ^ 「聖徳太子」復活を検討 次期指導要領で文科省”. 日本経済新聞 (2017年3月20日). 2017年3月22日閲覧。
  74. ^ 「何で一気にしゃべるの!?」聖徳太子の内心を歌う水曜日のカンパネラ新曲、音楽ナタリー、2023年9月7日。






聖徳太子と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「聖徳太子」の関連用語



3
74% |||||

4
74% |||||

5
74% |||||

6
74% |||||

7
74% |||||

8
74% |||||

9
74% |||||

10
74% |||||

聖徳太子のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



聖徳太子のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの聖徳太子 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS