柳生宗矩 宗矩の言葉

柳生宗矩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/11 15:33 UTC 版)

宗矩の言葉

兵法家伝書
  • 「一人の悪に依りて万人苦しむ事あり。しかるに、一人の悪をころして万人をいかす。是等誠に、人をころす刀は、人を生かすつるぎなるべきにや」
  • 「刀二つにてつかふ兵法は、負くるも一人、勝つも一人のみ也。是はいとちいさき兵法也。勝負ともに、其得失僅か也。一人勝ちて天下かち、一人負けて天下まく、是大なる兵法也」
  • 「治まれる時乱を忘れざる、是兵法也」
  • 「兵法は人をきるとばかりおもふは、ひがごと也。人をきるにはあらず、悪をころす也」
  • 「平常心をもって一切のことをなす人、是を名人と云ふ也」
  • 「無刀とて、必ずしも人の刀をとらずしてかなはぬと云ふ儀にあらず。又刀を取りて見せて、是を名誉にせんにてもなし。わが刀なき時、人にきられじとの無刀也」
  • 「人をころす刀、却而人をいかすつるぎ也とは、夫れ乱れたる世には、故なき者多く死する也。乱れたる世を治める為に、殺人刀を用ゐて、巳に治まる時は、殺人刀即ち活人剣ならずや」
葉隠
  • 「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり」
出典不明
  • 「刀剣短くば一歩を進めて長くすべし」
  • 「小才は縁に逢って縁に気づかず、中才は縁に逢って縁を活かさず、大才は袖触れ合う他生の縁もこれを活かす」

宗矩の門下

将軍家指南役にして、柳生新陰流(江戸柳生)の当主であった宗矩には多数の弟子がいた。それらの弟子達には、大名家へ指南役として仕えた者や、後に一流の流祖となった者も多かった。また、将軍家である秀忠、家光をはじめ、当主自ら入門している家も存在した。

当主自身が門下に入門している家、及び当主
大名家に仕えた門弟
御三家・一門・親藩[注釈 18]
譜代
外様
その他の門弟
  • 柳生内蔵助
  • 汀佐五右衛門
  • 時沢弥平…天心流流祖
  • 久米平内兵衛長守
  • 岡本仁兵衛…当流神影流流祖
  • 竹永直人…柳生心眼流流祖
  • 平井八郎兵衛…鹿島神道流流祖
  • 茨木俊房…起倒流流祖[注釈 20]。石舟斎や三厳の門弟という説もあるが、宗矩から俊房に与えられた新陰流目録や、宗矩の署名がある起倒流目録が現存する
  • 福野正勝…良移心当流流祖。また茨木俊房と共に起倒流を起こしたとされる。
  • 武藤安信(理兵衛)…宗矩の女婿
  • 石川政春(蔵人)…真之真石川流流祖
  • 松平信定 (大河内松平家)松平信綱の四男。宗矩晩年の弟子で、後に「新陰流兵法目録事」を著す。
門弟とする説もある人物

逸話

武芸者/為政者の両方に於いて高名を為したため、宗矩の逸話には、史実上のものと、真偽が不明なものがそれぞれ多数存在する。

史実上の逸話

家光との逸話
  • 島原の乱の際、大将として遣わされた板倉重昌の敗死を予見し、派遣を撤回するよう家光に諌言した(『徳川実紀』『藩翰譜』)。またその際、落城までの流れを正確に予見したため、家光はじめ周囲は驚いたという[20]
  • 元和8年(1622年)、新陰流を全て相伝してほしいと家光に強く要求されたため、伝書二巻を与えたが、伝書の末尾に「技法はこれで全てですが印可は別物です」という旨を記して、家光を諌めたという。(『玉成集』『新陰流兵法円太刀目録外物』)
  • 寛永15年(1638年)、家光に兵法の事でかなり強い意見をした後、臍を曲げて1ヶ月ほど自宅に引き篭もったことがある。その際、沢庵が話を聞いたところ、「自分はなんとも思っておらず、全ては上様次第である。やましいことなど何もない、まっすぐなものだ」と答え、大笑いしたという。結局、その後、家光が宗矩の機嫌を取ったことで再び仲の良い状態に戻ったという[20]
  • 寛永19年(1642年)、宗矩が湯治に出ていた間、沢庵和尚が家光の御前に出る度に、宗矩の話が出ないことはなく、ある時は「宗矩から和尚に手紙はないか」と十度も尋ねたという[20]
  • 亡くなる前、見舞いに来た家光が「何か望みはないか」と尋ねた時、「息子達(三厳、宗冬)をどのようにされるかは御心次第で構いません。ただ、柳生庄に寺を建て、父宗厳を弔うため、末子六丸(義仙)を住職にさせて頂きたくお願い致します」と答え、自分の死後、所領1万2,500石と家財全てを将軍家に返上した。これを受けて家光は宗矩の遺志通りに差配し、所領と家財を三厳・宗冬・列堂に分配している[9]
  • 宗矩の死後、家光は「天下統御の道は宗矩に学びたり」と常々語ったという(『徳川実紀』)。
  • 家光は宗矩の死後何かあると「宗矩生きて世に在らば、此の事をば尋ね問ふべきものを」と言ったという(『藩翰譜』)。
沢庵との逸話
  • 紫衣事件により、沢庵宗彭が罪に問われた際、天海堀直寄と共にその赦免の為に奔走している。これに対し、沢庵は後に手紙にて「大徳寺難儀に及び申し候時は、柳生殿と堀丹州両人の外に、さまで笑止とも申す人はこれ無し候。我身を大事に皆々存じて、其の時分はのがれぬ人達も、よそに見ており申し候」と記している[20]
  • 家光に「何故自分の剣の腕が上がらないのか」と問われた際、「これ以上は剣術だけではなく、禅による心の鍛錬が必要です」。と答え、その禅の師として配流中の沢庵を推挙し、後に家光が沢庵に帰依するきっかけを作った(『徳川実紀』正保3年5月28日条)[注釈 23]
  • 寛永12年(1635年)、家光の命によって沢庵が江戸に上府することになった際[注釈 24]、麻布の柳生家下屋敷(現在の目黒雅叙園の辺り)の長屋の一室を所望されたので、これを供した。沢庵はこの長屋の一室を「検束庵」と呼び、後に東海寺の住職となるまで、家光から屋敷を与えると言われても断り、ここに住み続けた(『東海和尚紀年録』)
  • 東海寺造営の際、家光に頼まれて宗矩が沢庵を説得したことで、沢庵は東海寺住持となる事を決めたという[20]
大名衆との逸話
  • 島原の乱の鎮圧後、抜け駆けを咎められた鍋島家のために家光へ赦免嘆願を取り成し、減刑に成功したという(『元茂公御年譜』)。
  • 亡くなる際、鍋島元茂に与える伝書(『兵法家伝書』)への花押を最後の力で印した。この時、宗矩は半ば意識が朦朧とし、元茂の家臣・村上伝右衛門の力を借りて印したため、花押は大きく乱れたという(乱れ花押)。なお、この村上伝右衛門は、葉隠の口述者・山本常朝の伯父である[21]
  • 正保2年(1646年)、鍋島直能が宗矩との兵法修行の際、国許の狩りで、向かってくる猪にわざと股の下をくぐらせ、後ろざまに抜き打ちで切り捨てた話をしたところ、「まだまだ修行が足りません。猪が股をくぐる前に仕留めなければ危ないでしょう」と諌めた。直能はこれに深く感じ入ったという[22]
  • 細川忠利の病が重くなった際、江戸にいた嫡子・細川光尚の帰国のため、老中・酒井忠勝と共に様々に取り計らったという[23]
  • 伊達政宗とは、かなり早くから交際があったという。慶長13年(1608年)、まだ3,000石の身であった宗矩の屋敷に政宗が遊びに来た際、振舞われた酒の美味さに惚れ込み、この酒を作れる杜氏を自家に欲しいと申し出たので、宗矩は大和榧森の又五郎を紹介したという逸話がある。なお、その後、又五郎は伊達家の「御城内定詰御酒御用」として召し抱えられ、切米十両と十人扶持、また「榧森」姓を与えられ、子孫代々御用酒を供し、仙台の酒造りに大いに貢献したという[24]
  • 寛永4年(1627年)11月、宗矩は胃潰瘍で倒れており、寛永6年(1629年)2月ごろになって、ようやく快復したという(宗矩から細川忠利宛の手紙)。この時、宗矩のために、伊達政宗が老中・酒井忠世に「宗矩は今後も役立つ者であるから暇を与え、湯治にでも行かせてやってはいかがか」と促している[25]
  • 寛永11年(1634年)、家光上洛時の朱印状発行の際、本家からの独立を狙った毛利秀元毛利就隆の動きに対し、毛利秀就からの頼みに応じて、これを防いだという[26]
  • 大坂の陣の後、詮議を担当した元毛利家家臣・内藤元盛(佐野道可)、及びその子息が主家の命によって自刃した一件(佐野道可事件)を嘆き、縁者に宛てて書状を送ったという。[要出典]
その他の逸話
  • 甥(長兄・厳勝の次男)の兵庫助(柳生利厳)が家祖となる「尾張柳生家」とは、利厳の妹を外国人(柳生主馬)に嫁がせた件をきっかけに、不和になったという[9]
  • 能や踊りを好み、自らもよく能を舞っている。秘曲とされる関寺小町を舞ったり、時には立ちくらみを起こすまで舞ったことがあったという[20]。また、能役者とも交流があり、立ち合い能の人選をおこなったこともあった[27]。ただし、好きが過ぎて大名家に押しかけて舞ったりすることもあったといい、沢庵より忠告を受けている(『不動智神妙録』)。
  • 沢庵より挨拶の良い大名を取り成ししているという噂があるので注意せよと忠告を受けている[注釈 25]
  • かなりの喫煙者であり、沢庵より「かく(胸の病)」になるので煙草を吸うのはやめるよう忠告を受けている[20]

真偽が定かではない逸話

家光との逸話
  • 家光が宗矩の不意をついて一撃を加えようとした時、これに気づき、「上様の御稽古である。皆、見るでない」と大喝し、家光の悪戯を防いだという[要出典]
  • 家光が宗矩が平伏しているところに「但馬、参る」と一撃を加えようとした時、敷物を引っ張って防いだという[28]
  • 家光から大和高取藩5万石への加増転封を問われた際、これを断り、友人の植村家政を推挙した。その際、代わりとして「山姥の槍」を所望した[注釈 26][9]
  • 家光に「檻に入って中の虎を撫でよ」と命じられた際、扇子のみを携えて檻に入り、気迫で虎の動きを封じて撫で、無事に檻を出たという(『東海和尚紀年禄』)
  • 家光が辻斬りをしていると聞き、変装して先回りし、斬りかかってきた家光の剣を無刀取りで止め、これを諌めたという[要出典]
沢庵との逸話
  • 沢庵和尚の流罪について、宝蔵院流の名人と呼ばれた中村市右衛門尚政と試合して勝てば赦免する条件で仕合し、これに勝ったので、和尚の赦免が成ったという話がある(水上勉『沢庵』)
  • 喫煙を沢庵に咎められた際、「では煙を遠ざければよろしかろう」と言い、部屋の外まで出る特製の長いキセルを作って煙草を吸い、「これで煙を遠ざけ申した」と答えたという[29]
  • 愛宕山の石段を馬で登ろうとして失敗したが、沢庵に啓示を受け、以来、石段であっても平地の如くに馬を操れるようになったという(『沢庵珍話集』)
一族との逸話
お藤の井戸(奈良市阪原町)
  • 嫡子・三厳(十兵衛)が隻眼になったのは、宗矩が月影の太刀伝授中に誤って傷つけたためとも(『正伝新陰流』)、鍛錬の為、飛ばした礫が誤って目に当たったためとも(『柳荒美談』)いわれている。ただし三厳のものと伝わる肖像画のは両目が描かれており、自著を含む三厳生前の記録にも隻眼であったことを示すものはない。
  • 『柳生藩旧記』に、次男・友矩が家光の寵愛を受けて自分を超えて出世するのが気に入らなかったという記述がある。また家光から友矩を大名に取り立てるという話が出た際にはこれを固辞し、ほどなく友矩が職を辞して柳生庄に戻り、病死した際、その遺品から「3万石(または4万石)を与える」という家光から友矩へのお墨付きを発見し、ひそかに家光に返上したという[9]
  • 三男・宗冬と仕合した際、「太刀が長ければ勝てるのに」などと言った不覚悟を咎め、戒めのため、気絶するほどの一撃を与えたことがあるという[30]
  • 柳生庄に戻った際、洗濯をしている娘に「その桶の中の波はいくつある」と戯れに尋ねたところ、「ではその馬の蹄の跡はいくつありますか?」と即答したため、これを気に入り、側室として迎えたという。この娘が後に列堂義仙の母となったお藤とされる。なお、このことを歌った俗謡に「仕事せえでも器量さえよけりゃ、おふじ但馬の嫁になる」というものがある(柳生観光協会『柳生の里』)。
武芸者としての逸話
  • 宗矩が江戸城で敷居を枕にして寝ていた際、若い武士達がこれを驚かそうと障子を閉めたが、宗矩があらかじめ敷居の溝に扇を置いていたので、障子は閉まらなかったという[28]
  • 能の名人観世大夫の隙を見抜き、これに感づいた名人に感嘆の声を上げさせた。これを聞いた家光は「名人は名人を知るとはこのことか」と讃えた(『甲子夜話』)。
  • 乗馬の達人諏訪部文九郎と馬上試合を行い、先に馬を叩くことで相手の動きを止めて勝利した。家光はこれを「まさに名人の所作である」と讃えた[30]
  • 『葉隠』内の逸話に、常住死身の境地に達した者を一目で見抜き、即日印可を授けたというものがある(『葉隠』)。
  • 年老いた後にも、背後の小姓の殺気を察知するなど、老いてもなお衰えなかったという[13]
  • 飼っていた猿が見よう見まねで剣を使えるようになり、ある時、これを牢人と立ち合わせたという話がある[31][13]
  • ある日、宮本武蔵に仕合を挑まれた際、「そなたの剣の境地は?」と問うたところ、「電光石火の如く」と武蔵の返事に「まだまだ修行不足」と挑戦を退けた。そこで逆に武蔵に問い返された時、自分の境地を「春風の如く」と返したという(『鵜之真似』)。
  • 塚原卜伝に天下一を巡って仕合を挑まれた際、「そなたは確かに強いが、今、わしを倒しても、家臣たちがそなたを逃がさぬであろう。それに気づかず挑むところが、そなたの未熟である」と諭したという話がある。ただし、卜伝は宗矩の生年である元亀2年(1571年)に死去しているため、この話は明らかな創作である(『撃剣叢談』)
  • 大阪の陣で振るった刀は「大天狗正家」(最上大業物十四工の一人、三原正家の作とされる。父・宗厳から受け継いだもので、宗厳はこの刀で天狗と立ち合い、後に一刀石と呼ばれる巨岩を切ったともいう)という説がある。ただし、宗矩の佩刀については柳生家の記録にも明確な記載はなく、三原正家の公式サイトでも具体的な史料は示されていない[32]ことから、おそらく後世の創作と思われる。[注釈 27]
その他の逸話
  • 父・宗厳が筒井氏に仕えていた縁で、石田三成の腹心である島清興(左近)とも交流があったという。そのため、関ヶ原の前には家康に命ぜられ、偵察も兼ねて挨拶に出向いたという。(『常山紀談』)
  • 関ヶ原の後、石田三成の庶子を1年匿ったという(白川亨『石田三成の子孫』)
  • 寛永御前試合にて審判を務めたという(『陸軍歴史』)

他流派の伝承上における宗矩の逸話

宗矩の逸話のうち、真偽が不明なものの中には、他流派の伝承が出典となっているものも存在する。これらの逸話の中には、史実と相反するものが多く、注意が必要である。

二天一流宮本武蔵
  • 宮本武蔵の逸話の中には、武蔵が将軍家指南役として招かれそうになったところを宗矩が妨害した、というものがある。この逸話は武蔵の死後、100年以上後に書かれた武蔵の伝記『ニ天記』が初出である[注釈 28]
  • また、武蔵を宗矩の師匠とし、無刀取りを試そうとした宗矩を「師にむかひて、表裏別心ありや」と叱り付け、謝らせたという話がある[注釈 29]。なお、同時代の史料の中に、武蔵が宗矩の面識を得ていたことを示す記述は確認できない。
小野派一刀流小野忠明(小野次郎右衛門),小野忠常
  • 一刀流の逸話の中には、秀忠の指南役として宗矩と相役であった一刀流二世・小野忠明が、宗矩に勝った事で、指南役としての地位を手に入れたという逸話がある。一方、史実において忠明は宗矩より先(文禄2年(1593年))に仕官している。なお、この逸話の出典は一刀流内部の伝記『一刀流三祖伝記』である。
  • また、同じく『三祖伝記』には、宗矩から忠明の剣を見たいと頼まれて柳生家に出向いたところ、宗矩本人が仕合せず、息子の十兵衛や高弟達が出てきたので、これをまとめて相手にしたという逸話がある。なお、この後、十兵衛が木刀を置き、「忠明殿の剣は水月の如し。到底拙者では敵い申さぬ」と平伏し、村田与三と共に忠明に入門したという顛末になっているが、十兵衛本人の著作や関連する書状に、忠明との関係をうかがわせる記述はない。
  • 同じく一刀流の逸話の中には、忠明が宗矩に対し、「剣の修行のためには人を斬らせるのが一番である。罪人を貰い受け、ご子息に斬らせてはいかがであろうか」と述べたところ、宗矩は「いかにも、いかにも」と答えたものの、実際にはそのようなことをしなかったというものがある(「日本剣道史」)
  • この他、忠明、またはその後を継いだ小野忠常が(宗矩と違い)将軍相手にも手加減をしなかったことで不興を買ったために加増されず、宗矩と差がついたと記されている[要出典]。ただし、史実においては、相役となって以降の忠明、及び忠常には特に旗本としての功績もなく、また忠明については同僚との諍いが元で閉門を受けたことなどに鑑みると、上がらないことに不思議はなく、多分に自己正当化の側面が強いと言える[注釈 30]
伊藤派一刀流根来重明
  • 『刀術流系』では、伊藤派一刀流根来重明徳川家宣に召し抱えられるところを、その前の仕合で重明に負けた「柳生但馬守」がこれを讒言したので沙汰止みとなった、という逸話がある。なお、家宣の生誕前に既に宗矩は亡くなっており、また家宣の統治期間中に「但馬守」を名乗った柳生家当主は存在しない[注釈 31][注釈 32]
富田流富田重政
  • 富田流の宗家富田重政と宗矩の立ち合いを家光が望んだ際、重政が「これは但馬守も承知の上か」と不審に思い、「本当によろしいか」と確認した後、直前で沙汰止みとなったという[要出典]
タイ捨流丸目長恵(丸目蔵人))
  • タイ捨流の流祖丸目長恵が、新陰流の正統をかけて宗矩に直談判し、東国では柳生が、西国では丸目が天下一を名乗ることを認めさせたという逸話がある[33]。ただし、その西国(九州)の大藩である熊本藩細川家、佐賀藩鍋島家において当主自ら柳生新陰流に入門し、大いに隆盛したこと、およびその両藩(特に丸目の住地である人吉藩に隣接する熊本藩)で上記逸話を証する史料は存在しない。一方で、上泉信綱より丸目宛に「西国の御指南は貴殿に任せおき候」と記された書状がある。
示現流東郷重位
  • 示現流の伝承には、流祖である東郷重位が、元和のころ、宗矩の高弟で将軍に指南をしていたという旗本の福町七郎右衛門、寺田小助を破り、試合後、両人から入門の誓紙を受けたとするものがある[注釈 33][要出典]。ただし、この出来事、及び、この両旗本の名は『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』では確認できない。
無住心剣流針ヶ谷夕雲
  • 無住心剣流の逸話には、宗矩が無住心剣流流祖・針ヶ谷夕雲に対して「其の方の只今兵法の理に立向て勝ちを得べき覚えなし」と賛嘆し、試合を避けたというものがある[34]
二階堂兵法(松山主水
  • 二階堂平法の松山主水が細川忠利に技を教授したところ、忠利が宗矩に対して、ときに勝ちを取れるようになり、急に腕が上がったのを宗矩が不思議がったという話がある[要出典]
尾張柳生(柳生利厳(柳生兵庫助))
  • 尾張柳生家の主張では、柳生宗家(本家)を継いでいるのは嫡流の自家であり、傍流の江戸柳生家は分家であるとしている。しかし、戦国時代においては、嫡男は必ずしも長男の事を指すとは限らず、当主の決定によって変えられることが多々あり、関が原の後、所領を取り戻した宗厳が所領全てを宗矩一人に継がせていることから見て[注釈 34]、血筋だけを以って宗家を主張するのは無理があると言える。また『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』、及び『本朝武芸小伝』『撃剣叢談』などの江戸時代に書かれた記述において、石舟斎の嗣子(嫡男)とされているのは一貫して宗矩であり、尾張柳生家を柳生宗家と認めている記述は無い(利厳の父、新次郎厳勝は廃嫡されている)。
  • 同じく尾張柳生家では、石舟斎が自らの正統と認め自身の技法をあますことなく伝えたのは、新陰流正統の証である「一国一人の印可」[注釈 35]と「新影流目録」を継承した利厳のみであり(柳生厳長『正傳新陰流』)、宗矩や他の上泉の門弟が伝える系統は傍流であるとしている。これに対し今村嘉雄は、「一国一人」とは日本に一人という意味では無く甚だ稀なという修辞の意味であり[注釈 36]、「新影流目録」に類する目録も疋田景兼丸目長恵といった石舟斎以外の信綱の門弟にも与えられていることから、これらに新陰流正統の証の意味合いがあったとは考えづらいと主張している。また石舟斎の道統についても、尾張柳生家に伝えられた目録等は全て江戸の柳生家にも伝わっており[注釈 37]、宗矩と利厳等に皆伝されていると考えるのが妥当であるとしている[36]。なお『本朝武芸小伝』、『撃剣叢談』などにおいて、尾張柳生家の新陰流を新陰流正統と認めている記述は無く、どちらも宗厳の新陰流の後継は宗矩としている[注釈 38][注釈 39]

注釈

  1. ^ ただし、柳生家が失領した時期については諸説あり、小田原征伐より後の文禄3年(1594年)に行われた太閤検地の際に、隠し田が露見した事によるものとする説もある[2]
  2. ^ 渡辺一郎「兵法家伝書」では出典を「徳川実紀」とするが記載がない。永岡慶之助「柳生の剣と武蔵の剣」では「安藤治右衛門家書」に出典があるとする。
  3. ^ 立花宗茂の計策により、宗矩の諫言に感じ入って直盛は自害したという説がある[8]
  4. ^ ただし、元々将軍や大名である人物が剣豪になった例(足利義輝北畠具教松浦清(静山)など)や、陪臣のため大名ではないが、宗矩以上の石高(1万3000石)を得ている富田重政などの例もある。
  5. ^ 寛永13年2月25日 小河九右衛門宛の沢庵書簡における宗矩について「上方よりの知音にて候。紫野(大徳寺)の昔から参徒にて、内縁ふかき人」とある。
  6. ^ 正確な日付は不明であるが、『徳川実紀』における沢庵推挙の由縁に従えば、寛永9年以前の事になる。
  7. ^ 寛永20年、正保2年とある[9]
  8. ^ ここでいう新陰流は宗矩が宗家の「江戸柳生」のことで、柳生利厳(兵庫助)の「尾張柳生」のことではない。
  9. ^ 「天下一柳生、天下二小野」という記述あり[13]。また石州流の伝承によると「剣は柳生、絵は狩野、茶は石州」と称されたという。
  10. ^ 正保3年3月20日の家光見舞いの件り。
  11. ^ 現存する家光の兵法誓紙に宗矩宛以外のものは確認できない。
  12. ^ 元は禅語。宗矩以前の新陰流では相手を存分に動かして斬る等の意味で用いられていた。
  13. ^ この事から「心法の江戸柳生」と称されることもある(対比として「刀法の尾張柳生」がある)。
  14. ^ 『兵法家伝書』において、宗矩はこれを「平常心」と称し、目指すべき理想の心理状態としている。
  15. ^ 宗矩と同時代の軍学者・儒学者で一刀流を学んだ経験もある山鹿素行は『山鹿随筆』の中で「柳生但馬(宗矩)は、自身は長年の下学(修練)の末に剣術の妙理を会得したが、自分の弟子には(下学を疎かにして)妙理を極めた心を教えようとしたので門人にさほどの上手がでなかった」と評している。また細川忠興(三斎)も意図は不明ながら「新陰は柳生殿よりあしく也申候」と批判している。
  16. ^ 「中将(島津光久)元来門弟トシテ入魂ニヨリ」と記述あり。
  17. ^ ただし久世広之が大名になるのは宗矩死後の慶安元年である。
  18. ^ 御三家筆頭・尾張徳川家がないのは、尾張徳川家剣術指南を尾張柳生家が務めており、江戸柳生家と尾張柳生家は師弟関係ではないためである。
  19. ^ この他、伊達家には宗矩の甥(利厳の弟)、柳生権右衛門も仕えている。
  20. ^ ただし起倒流の成立の歴史には諸説あり。
  21. ^ 荒木又右衛門の新陰流入門の誓紙は仇討ち後の寛永12年10月24日のものであり、宛先も戸波又兵衛になっている。
  22. ^ この人物については「渡辺幸庵対話」において述べた自らの経歴と、「徳川実紀」「寛政重修諸家譜」にある「渡辺茂」についての記述の間に矛盾が多く、そのため、宗矩の弟子という話も含め、経歴自体が偽証の可能性がある。詳細は渡辺幸庵の欄参照。
  23. ^ なお、この逸話は新渡戸稲造の『武士道』において、武士と禅の関係についての話として引用されている。
  24. ^ この時、宗矩に直接手紙を出して相談するなど、かなり上府を渋っていたという[20]
  25. ^ これについてはそういう風評があったというものであり、毛利家の記録によると、毛利秀就から進物を贈られた際、家光による倹約令もあって、これらを丁寧に断ったという記録がある[26]
  26. ^ 実際にはこのころには家政は既に亡くなっており、大和高取2万5000石に封じられたのは息子の植村家次である。
  27. ^ また福永酔剣『日本刀大百科事典』「正家」や佐藤寒山『新・日本名刀100選』などにも記載がない。
  28. ^ 武蔵が将軍家指南役に誘われた際、柳生の下になることを嫌って自ら断り、宗矩の側も特に武蔵を推挙しなかった、という話が享保12年(1727年)に書かれた『丹治峯均筆記』にある。
  29. ^ 二天一流内の伝承ではないが、寛政ごろの随筆集『異説まちまち』に記述あり。
  30. ^ なお、寛永10年(1633年)2月の家光による1,000石以下の小姓番書院番の番士全員への一律200石加増により、忠常の代に小野家は800石になっているため、加増がないということも史実に反している。
  31. ^ また別の説では家光の御前試合に参上するところが、家光の死によって沙汰止みとなったとされているが、その場合でも、既に宗矩は死去している。また、家光が死ぬ前の慰みとして、俗に「慶安御前試合」と称される兵法上覧が慶安4年(1651年)に開かれているが、ここの出場者の名に重明の名はない。
  32. ^ 一刀流内部の逸話で宗矩(及び柳生家)が引き合いに出されることが高いのは、同じ将軍家剣術指南役という地位にいるにもかかわらず、家格・名声において圧倒的に差がつけられ、「天下一柳生流、天下二の一刀流」(「日本剣道史」)などと称されたことが影響していると言われている。
  33. ^ この誓紙とされるものが示現流史料館にある。
  34. ^ 『正傳新陰流』では新次郎厳勝にも所領を分けて継がせたとあるが、石高的に計算が合わなくなる上、その場合、厳勝も直参として名が残る筈であるが、そのような記述はない。また、その嫡男である利厳が加藤清正のところへ仕官するのは不自然である。
  35. ^ 永禄8年4月に上泉信綱より石舟斎に与えられた印可状。文中に「一流一通りの位、心持を一つ残さず伝授している、その事が偽りなく真実であることを神仏にかけて誓う、九箇まで伝授する事を許可する、上方には数百人の弟子はいるがこのような印可を与えるものは一国に一人である」とする旨が記載されており、信綱が石舟斎を唯一の正統と認め、他の門弟にも教えていない技法を伝授した証とされる。
  36. ^ 永禄8年8月に宝蔵院胤栄に与えられた印可状には「一流一通りの位、心持を一つ残さず伝授している、その事が偽りなく真実であることを神仏にかけて誓う、九箇まで伝授する事を許可する」と、「一国一人」にしか授けられていないはずの石舟斎の印可状とほぼ同様の内容が記されている。
  37. ^ 尾張柳生家にしか伝えられていないと考えられていた目録は全て、宗矩の長男三厳が著書『月の抄』の中であげた二百三十二項目中に含まれている[35]
  38. ^ 『本朝武芸小伝』では宗矩を宗厳の「嗣子」とし、利厳は宗厳の子(宗矩の弟)としている。
  39. ^ 『撃剣叢談』では宗厳を開祖とする「柳生流」の跡を「二代目但馬守宗矩」としており、利厳についての記述はない。
  40. ^ 「無刀」については吉川英治の小説『宮本武蔵』、それを原作とした漫画『バガボンド』などの様々な創作物の影響もあり、一種の悟りの境地、あるいは平和主義的な思想として捉えられる事もあるが、この伝書内で説かれている「無刀」は、「わが刀なき時、人にきられじとの無刀也」とある通り、“刀がない状態で危機に陥った際、如何に対処するべきか”という実用重視のものである。しかし反面、術だけを論じている訳でもなく、また、宗矩の父・石舟斎が自著「兵法百首」において『無刀にて きはまるならば 兵法者 こしのかたなは むよう成けり』と歌っていることも踏まえると、前述のイメージもまったく論拠のない創作という訳でもない。
  41. ^ それらの作品では“剣を権に変えた”“政を以って剣を歪めた”などと揶揄されることが多い。

出典

  1. ^ a b 今村 1967, p. 上66収録「玉栄拾遺(三)」
  2. ^ 今村 1994, p. 150.
  3. ^ a b 今村 1967, p. 上59収録「玉栄拾遺(二)」
  4. ^ 寛政重修諸家譜, p. 296.
  5. ^ 『東照宮御実紀付録』10巻
  6. ^ a b 徳川実紀, pp. 442–443
  7. ^ a b c 寛政重修諸家譜, p. 296
  8. ^ 『柳川史話(全)』P.348、古賀敏夫『立花宗茂』P.331
  9. ^ a b c d e 『玉栄拾遺』
  10. ^ 今村 1967, p. 上77収録「玉栄拾遺(三)」
  11. ^ 不動智神妙録
  12. ^ 本朝武芸小伝
  13. ^ a b c d 撃剣叢談
  14. ^ 徳川実紀』正保3年5月28日
  15. ^ 家光よりの追悼時従四位下贈位書より。
  16. ^ 『玉栄拾遺』[注釈 10]
  17. ^ 『昔飛衛といふ者あり』
  18. ^ 佐藤錬太郎『禅の思想と剣術』(日本武道館、2008年) P283。
  19. ^ 『玉栄拾遺』[注釈 16]
  20. ^ a b c d e f g h 『沢庵和尚書簡集』
  21. ^ 『兵法家伝書』小城藩(小城鍋島家)版
  22. ^ 『直能公御年譜』
  23. ^ 『細川忠興書状』
  24. ^ 宮城県酒造協同組合『宮城の酒づくりの歴史』
  25. ^ 『政宗公治家記録引証記』
  26. ^ a b 『公議所日乗』
  27. ^ 寛永16年12月20日細川忠利から忠興宛の書状
  28. ^ a b 『異説まちまち』
  29. ^ 『秘剣埋火』戸部新十郎著 徳間書店 1998年 p196-197
  30. ^ a b 『明良洪範』
  31. ^ 翁草
  32. ^ 其阿彌秀文 (2016年9月1日). “講談 演目:柳生宗矩の大坂夏の陣七人斬”. 三原正家. 2019年3月16日閲覧。
  33. ^ 剣豪とフルーツの里錦町[1]2020年1月10日閲覧
  34. ^ 笹間良彦『図説日本武道辞典』柏書房、2003年
  35. ^ 今村嘉雄『定本 大和柳生一族―新陰流の系譜―』(新人物往来社 、1994年2月1日)P182
  36. ^ 今村嘉雄『定本 大和柳生一族―新陰流の系譜―』(新人物往来社 、1994年2月1日)


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