彌彦神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/15 01:58 UTC 版)
概要
「弥彦」は歴史的には「伊夜比古・伊夜日子・伊夜彦」などとも表記され「いやひこ」と読んでいたが、現在は「やひこ」と言い習わされている[1]。
越後平野西部の弥彦山(標高634m)山麓に鎮座し、弥彦山を神体山として祀る神社である。
『万葉集』にも歌われる古社であり、祭神の天香山命は越後国開拓の祖神として信仰されたほか、神武東征にも功績のあった神として武人からも崇敬された。宝物館には日本有数の大太刀(長大な日本刀)である「志田大太刀(しだのおおたち、重要文化財)」や、源義家や源義経、上杉謙信(輝虎)などに所縁と伝えられる武具などが社宝として展示されている。
宮中同様に鎮魂祭を行うとして、石上神宮・物部神社と共に有名である。なお、当社の鎮魂祭は宮中で行われる11月22日でなく、4月1日と11月1日の年2回行われる。二年参りや初詣、秋の菊まつりは特に賑わう。
分社が北海道から山陰地方まで少なくとも47ヵ所に点在する。越後発祥の武士・山内氏が所領の会津地方(現・福島県西部)に勧請したり、移住者や新潟県で産する石油関連企業が県外で創建したりして広がった[2]。
祭神
歴史
概史
創建年代は不詳。祭神の天香山命は、『古事記』に「高倉下」として登場する(ただし古事記において天香山命と高倉下が同一とする記述はない)。社伝によれば、命は越後国開拓の詔により越後国の野積の浜(現・長岡市)に上陸し、地元民に漁撈や製塩、稲作、養蚕などの産業を教えたとされる。このため、越後国を造った神として弥彦山に祀られ「伊夜比古神」として崇敬された。このほか、弥彦の大神は、神武天皇即位の大典の際に自ら神歌楽(かがらく)を奉奏したとされる。ただし、尾張国造家の祖神である天香山命が越後に祀られるのは不自然なため、本来の祭神は北陸の国造家高橋氏祖神の大彦命ではないかとする説もある。
江戸時代には、高田藩藩主・松平忠輝が、500石の社領を寄進し、朱印地となった。朝廷からも篤く崇敬されたという。社家は明治時代まで高橋氏が世襲した。
この頃神主であった高橋左近光頼により、神道家・橘三喜の教えの影響下で、神社の神宮寺を廃して仏像を取り払い神葬祭を行うなど、神仏分離が行われた。しかし元禄4年(1691年)に光頼は神宮寺の僧に訴えられて敗訴している。
国学者の平田篤胤は、弥彦神社に聖徳太子が記した神代文字が存在すると主張したが、該当の文書は火事で焼失したと伝わる。
明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列した。
神階
- 天長10年(833年)7月3日、名神に預かる (『続日本後紀』) - 表記は「伊夜比古神」。
- 承和9年(842年)、無位から従五位下 (『続日本紀』) - 表記は「伊夜比古神」。
- 貞観3年(861年)、従五位上から従四位下 (『日本三代実録』) - 表記は「弥彦神」。
境内
本社(山麓)
社殿は明治45年(1912年)に焼失し、大正5年(1916年)に現在地に移って再建された。拝殿の背後に弥彦山を仰ぐ[3]。
- 本殿 - 三間社流造。
- 幣殿
- 拝殿
- 万葉道
弥彦山頂
- 御神廟
- 奥の宮。弥彦山頂に鎮座する(北緯37度42分17.08秒 東経138度48分32.17秒 / 北緯37.7047444度 東経138.8089361度)。天香山命と妃神熟穂屋姫命の神廟とされる。
その他
- 大鳥居
- 弥彦神社上陸地
- 弥彦の神が上陸した地とされ、石碑が建てられている。
-
旧本殿跡
宝物館前に位置した旧本殿の跡地。 -
大鳥居(背後に弥彦山)
-
弥彦神社上陸地碑
- ^ “御由緒”. 越後一宮 弥彦神社. 2022年5月21日閲覧。
- ^ 山崎幸和「弥彦神社、分社の歴史◇全国47社の背景探る 石油産業との意外なつながりも◇」『日本経済新聞』朝刊2019年6月5日(文化面)2019年6月11日閲覧。
- ^ 境内地図は 彌彦神社境内めぐりマップ(弥彦観光協会(外部リンク))参照。
- ^ 2012年現在の日本一は、和歌山県田辺市の大斎原(熊野本宮大社旧社地)のもので、高さ33.9m。
- ^ “新潟にしかん観光周遊ぐる~んバス”. Niigata West Coast. 2020年9月11日閲覧。
弥彦神社 (札幌市)
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